経過については英文資料をあたる他ないだろうな、と覚悟を決めていましたが、「ラテンアメリカの政治経済-変革の現在を厳選して伝える」というサイトがあって、かなり詳しく経過を紹介してくれています。それを主体に各種報道で補う形で、経過を追ってみたいと思います。


2008年8月 ルゴ大統領はかつて「貧者の司教」と呼ばれた聖職者で、40%の投票を得て大統領に就任した。しかし議会に支持勢力を持ないルーゴは、政権維持のために右派の自由党(PLRA)との連立を組んだ。自由党のフランコ党首が副大統領に就任した。しかし自由党との政策、考え方の違いは明らかで、その関係は疎遠なままであった。

パラグアイは大豆生産地として知られる農業国である。そこでは農民の2%が農地の80%を占有する昔ながらの大土地所有が続き、土地をめぐる紛争が後を絶たない。ルーゴは土地改革案を提出したが、右派勢力の抵抗によってほとんど前進していない。

そんな中で今年、首都アスンシオンから北東に約240キロ離れた農村クルグアティ(Curuguaty)で暴力事件が発生した。土地なし農民が土地占拠闘争を展開。現地警察と衝突するようになったのである。これは全国各地で長いあいだ続く土地闘争のひとつに過ぎない。

そして6月15日、流血の事態が発生した。農民11人、警官6人が死亡した。農民11人が死んでも、「かわいそうね」とか「どうせ自業自得よ」くらいで終わるのだろうが、誰でも警官犠牲者の多さに驚くであろう。

私から言わせれば、これが典型的なCIAの手口である。そしてこの日をXデーとして、およそ1週間くらいのあいだに猛烈なキャンペーンを組んで、最後にクーデター、というのが絵に描いたようなCIAの戦術だ。

パラグアイ農地運動(MAP)の指導者は「我々は生存のために土地闘争をたたかっているが、銃器は持っていなかった。どのようにして発砲が始まったのかは分からない」と語っている。当局の陰謀説を唱えるリーダーもいた。

ベネズエラのクーデターのときもビルに隠れたスナイパーが民衆を大量虐殺した(ベネズエラ…何が起きたのか?)。半年後のゼネストの際も挑発者による反チャベス活動家の射殺事件が何度も起きている(2002年 ベネズエラ・ゼネストに学ぶ)。警官の5人や6人殺すのに何の躊躇もない連中だ。以前報告したように、ボリビアのサンタクルスにはコロンビアのAUC(パラミリタリー)崩れの殺し屋連中がごろごろいる。現地の米領事館が呼び寄せ、地元の大地主が養っているそうだ(ボリビアの国内対立激化と米国の陰謀)。日曜の朝にサンタクルスの下街を散歩していて、教会前の歩道に鮮やかな血だまり(動脈血)を見つけたときには、さすがに食欲がなくなった(エクアドルとボリビアの旅)。

この事態を受けて、カルロス・フィリソラ内相と警察幹部が辞任したが、議会は納得せず、責任はフェルナンド・ルゴ大統領にあると追及。また内相の更迭は自由党との連立を崩壊させた。コロラド党など、ルーゴ政権発足以来クーデターの機会をねらっていた右派勢力の動きが開始された。

6月21日、つまり事件発生からわずか6日後に、パラグアイ下院は弾劾裁判の開始を決定した。「大統領が占拠問題に適切に対応せず、農民をあおった」とというのがその理由。しかもその翌日に上院の開会を求め、即日判断を下すことを求めている。

パラグアイの大統領弾劾制度は、下院が発議し上院が裁判所の役割を果たすことになっている。上院は45人で構成され、2/3の賛成で弾劾が決定される。上院は圧倒的に保守派が優位だから、下院の過半数があれば成立してしまうことになる。この憲法上の抜け道を知りぬいた上で計画が立てられたことは間違いないだろう。

問題はこの水際立った手際の良さだろう。彼らの主張は“占拠農民が警官を銃撃し4人を射殺した”という前提に基づいている。しかしどう考えても、これはつじつまが合わない。時間がたてば民衆のあいだに疑問がわいてくる。真相調査をもとめる声も高まるだろう。その前に決着をつけなければならない。この考える暇を与えないスピード感はCIA独特のものだ。

ルーゴ側は弁明期間を延長するよう議会に求めた。また、今回の議会の行動は憲法違反であると最高裁に訴えた。ルーゴを支持する社会運動、農民たち2,500人以上が憲法広場前に集結した。

いかにも歩みがのろい。私なら人殺しに情けをもとめる前に、ただちに全力動員で国会を包囲させる。野党の有力議員を缶詰にする。軍をスクランブル体制に置く。メディアを抑え声明をバンバン流す。場合によっては市民武装もちらつかせる。周囲の友好国に支援と連帯の証しを求める。要するに断固たる対決姿勢を鮮明に示す。

UNASUR諸国首脳ははるかに敏感だった。たまたまリオで開かれていたリオ+20に出席するため、全員が集結していた。その場で開かれた緊急首脳会議で、エクアドルのコレア大統領がぶち上げた。「パラグアイ議会がルーゴを罷免した場合、これはクーデターであって、南米諸国連合はパラグアイとの国境を閉鎖するべきだ」

そしてUNASURの外相が現地に飛ぶことが合意された。外相たちは一つの飛行機に相乗りしてアスンシオンに向かった。外相団はルゴ大統領と協議した。ルゴは残留の決意を明らかにした。このあと外相団は国会指導者と会談した。ウナスールのアリ・ロドリゲス事務総長と各国外相は、「ルーゴを罷免した場合には、パラグアイのウナスールからの追放する可能性がある」と警告した。ホルヘ・オビエド議長は「投票するのはパラグアイ議員であって、ウナスールの外相ではない」と開き直り、提案を拒否した。

翌22日午前、上院の弾劾裁判が開廷された。赤旗によると、「審理は大統領を一方的に中傷する文書にもとづいて行われました。弁護側に与えられた反論時間は2時間だけでした。事実関係の調査は一切ありませんでした」ということで、文字通りの略式・即決裁判。戦場での銃殺刑並みの無法なものであった。

そしてその日の午後5時半には、ルーゴ大統領が「その任に適さない」という理由の弾劾の評決をおこない、賛成39票反対4票欠席2で弾劾が成立した。

我々は近い過去に三度、大統領弾劾の成立を経験している。もっとも有名なのがウォ-ターゲート事件に絡むニクソン弾劾だ。残りの二つは90年のブラジルにおけるコロール大統領の弾劾と、94年のベネズエラにおけるペレス大統領の弾劾だ。この三つに共通しているのは明確な刑法上の犯罪を犯している点だ。しかもその審議には年余の審議をかけてあらゆる物証が検討された後に弾劾に到達している。犯罪を犯したわけでもない、一国の大統領を弾劾するのに、わずか2日というのは、クーデターと呼ばれても仕方ない。

午後7時、ルーゴは議会の罷免の決定を受け入れると表明した。それまで彼は辞任することはないと言明していた。

ルーゴの声明の要旨: わたしは議会の決定を受け入れる。わたしは常に行動で答える準備がある。…これはパラグアイの歴史を、民主主義を、深く傷つけることになった。かれらは弁護のあらゆる原則を破り、卑怯で計画的におこなった。わたしはかれらがその行為の重大さを知るべきだと思う。…わが国で異なった利益のために血が流れることのないように、わたしは今日共和国大統領をやめる。しかしパラグアイ市民をやめることはない。わたしを必要とするこの国に自分を捧げる」

気持ちは分からないでもないが、せめてあと1週間はがんばってほしかった。当面はすぐ逮捕される危険はないのだから。まだ裁判所に訴える道は残されているのだから。軍が動いているという確かな証拠もないのだから。1週間で国内世論はあっという間に変わる。もともとデマと扇動だけで作り上げた筋書きなのだから。

この声明を受けた形で、フランコ副大統領が大統領に就任した。副大統領といってもルーゴには何の忠義感もない。むしろルーゴを引き摺り下ろす影の主役の一人だった(パラグアイ政変劇の背景)。警察部隊は議会外に集まっていたルーゴ支持者にたいして、催涙ガス、放水車、騎馬警官を使ってこれを解散させた。

これで一巻の終わりである。