5月1日の赤旗はメーデー特集。
文芸欄には、若杉鳥子がメーデーのデモ行進をうたった詩が掲載された。詩そのものはそれほどのものとも思えないが、併載されたポートレートがすこぶるつきの美人。しかも上流階級の雰囲気で、とてもプロレタリア作家とは思えない。

それもそのはず、旧高梁藩主板倉子爵の令弟の奥方なのだ。

1336669850

しかもただの奥方ではない。波乱万丈の運命の持ち主でもある。NHKの朝の連ドラでどうして取り上げないのか不思議なくらいだ。いかにも山田洋次好みと思うが。
とりあえずいくつかのネットのページから拾ったものをまとめておく。


本名はとり。旧姓は田上。
古河の豪商の妾腹の子として明治25(1892)年、東京に生れ、生後間もなく、茨城県古河町の芸者置屋
『菊本』の若杉はなの養女となるが、学齢まで貧農に里子に出される。(それ自体はよくある話で、別に虐待されたわけではない)
尋常小学校4年卒業後は芸者の修行をさせられていたが、
家業を厭い、16歳の時上京。小間使いなど自活の道を探り、17歳の時、中央新聞の記者となる。
19歳の時元備中松山藩主板倉勝弼子爵の庶子で、萬朝報の記者であった板倉勝忠と結婚。
1929年「文藝戦線」に発表した『烈日』でプロレタリア作家としての評価を受ける。宮本百合子らと「働く婦人」の編集などに従事。プロレタリア作家同盟が結成され、加盟する。
関東消費組合配給員としてメーデーに参加。『戦旗』に「婦人の一人として」を書く。これが赤旗に掲載されたものだろう。
この頃よりモップルの一員として、救援活動に参加。
33年、小林多喜二の通夜に出席。小林多喜二の葬儀を機に暗躍したとして、治安維持法違反で検束される。

昭和12(1937)年12月18日、阿佐ヶ谷の自宅にて病没。(台所で倒れているところを発見されたらしい。病名は脳溢血、心臓麻痺、喘息という相当いい加減なものだが、もともと喘息持ちではあったようだ)

ある詩から
自をさへ助け得ぬ
少女に何の力ある、
「反抗」にのみ血をたぎる
女は、何に生くべきか


別の詩から
秋風の白きつばさは
古き戀人の門をも叩け
いさかひて別れし人の
結ぼれし胸にもそよげ

という具合で、残念ながらあまり文才には恵まれなかったようである。周りの評価も、鳥子がいかに美人だったかという話ばかりだ。
小坂多喜子
鳥子がそのときどんな用事で私達の新婚世帯を訪ねたかは忘れてしまったが、その細い華奢な身体全体から滲み出るような妖しい色気に私は心をうばわれ、嫉妬を感じたのを覚えている。竹下夢二の絵からぬけ出たような叙情的雰囲気ふんいきを持った美人だった。
平林英子
今にして思へばその美しさが必ずしも若杉さんを幸福にしたとは思へない。あの人の直情的な友情と正直さ、こまかい心使ひのうちにも、内にひそむぴりぴりするやうな潔癖な神経を理解する者の少なかったのは、若杉さんの為に不幸であったと思ふ。