民主化の挫折

85年3月、待ちに待った民政復帰が実現します。ブラジリアの政庁舎には“Bon Dia Democracia”のたれ幕が掲げられました。新政府は共産党(PCBおよびPCdoB)などを合法化しました.全学連も活動を認められました。

しかしそのデモクラシアの前途は多難なものでした。軍は無傷のまま残り、折あらばふたたび軍政への復帰を狙います。政権を握った政治家たちは、軍政時代に存在を許された御用政党の指導者たちでした。

軍の横暴を象徴するのがメンデス事件です。
①ベッチ・メンデスは高名な舞台女優で,クーデター当時に下院議員を務めていた.64年のクーデターのあと,軍警察に捕らえられ,獄内で拷問を受けた.
②ベッチ・メンデスは,何らかの情報を受け,モンテビデオのブラジル大使館の駐在武官ウストラ大佐が,自らを拷問した下手人であることを確認した.
③ピーレス陸相は,以上の事実経過を認識し,かつ,大統領の命令を受けたにもかかわらず,「大佐はわれわれの信頼を得ており,通常の任期終了までこのポストにとどまる」と判断し,命令を拒否した.
④この結果,ウストラは拘束されず,現職に引き続きとどまり,大統領は部下である陸軍大臣の命令違反を黙認することとなった.
⑤この結果,軍部は共和国の法体制から超越することになった.また軍政時代の拷問は罰せられる可能性がなくなった.したがって拷問の下手人の法的処罰は不可能となった.

軍事政権を支えたもう一つの柱、大地主層は新政権に猛烈な敵意を示しました。農業者民主連合は土地占拠農民に対して実力で対抗します。各地に死傷者 が続発するようになりました。政府は農地改革計画を発表しますが、絵に描いた餅でした。結局、大地主の意向を汲んで占拠農民の排除へと動くようになりま す。

一番問題なのは、国の金庫が空っぽだということでした。その頃のブラジルをはじめとする中南米諸国は、「失われた10年」の真っ只中にありました。 対外債務は天文学的水準に達し、実質的に破産状態にありました。サルネイ大統領は国連で演説.失業や飢餓を生んでまで対外債務を返済することは出来ないと 表明しますが、当時IMFの支援を受けずに経済を再建することは不可能でした.アメリカは重債務国のこの弱点を徹底的に突いたのです。

この頃、アーンズ枢機卿は、債務問題について次のように語っている。
「過去2年 間の大変な努力によって1ヶ月当たり10億ドルの輸出超過を実現した。しかしこの金は債務の利子返済に充てられるのみである。我々はすでに借りた金の 2,3倍を返済した。このやり方を続けることは不可能である。すでに三分の二の民衆が飢えているにもかかわらず、我々は彼らが食べなければならないものまで取り上げてしまった。我々は民衆の血と困窮を第一世界のために捧げるのを辞めなければならない」

新政権はそれまでの高度成長路線を転換し,社会格差の減少を打ち出しました.しかしそのための公共投資はインフレに火をつけました。これに対抗するための高金利政策は対内債務をさらに膨らませました。IMFは拡大信用供与を停止,民間銀行団の支援もストップします.

それでも2年間は、何とかがんばったのですが、外貨が底をつき、対外債務の支払いが滞るに及び、ついにIMFに詫びを入れることになります。

 

革新野党としての労働者党の旅立ち

86年11月、民政復帰後最初の総選挙か行われました。民主化の今後を占う上で決定的に重要な選挙でした。軍政時代に体制内野党だったPMDBが、 議席の過半数を獲得するなど圧勝します。労働者党は6.5%を獲得し、全国政党への飛躍を遂げました。ルーラはサンパウロ州から立候補し,全国一の投票率 で選出されています。二つの共産党もあわせて7議席を獲得します。

翌月、労働組合連合は政府の緊縮予算に抗議して全国ゼネストを組み、労組の42%が参加する空前の規模となりました。陸軍は装甲車によりボルタ・ヘドンダ製鉄所を占拠,主要交通機関を監視下におくなど、政府などなきが如しの態度をとります.

これを押し返すのは、結局は労働者と農民の団結の力、市民の動員力しかありませんでした。87年は軍と人民の対決の年となりました。土地なし農民 は、殺されても殺されても占拠闘争を続けました。空軍と空港の労働者が共同で48時間ストを打ち抜きました。これには6万人が参加し、空軍の機能は完全に 麻痺しました。

翌88年11月には軍の弾圧を跳ね返してボルタ・レドンダ製鉄工場でストライキを打ち抜き、さらにタンカー従業員5万人のストで7つの製油施設が麻痺します.労働者の力なくしては軍隊も動けないということが証明されました。

政府は軍の統帥権確保には失敗しますが、予算編成の方向から軍への締め付けを強めます。こうしたなか、軍警察隊員が一般軍人並みの賃金を求めリオでデモ行進を行いました。このあと軍は徐々に政府を無視した強権発動を控えざるを得なくなります。

この過程で、民主化を担ってきた勢力のなかでも力関係の変化が生じてきました。サルネイは元々保守党の出身で、MDBのネベス大統領が病死したため に副大統領から昇格した人物ですが、民主化の精神を引き継ぎ、がんばってきました。しかし外には債務の重圧、内には軍との軋轢と言う中で徐々に力を失って いきます。いっぽうネベスを推戴していたMDB(その後MDB党)も、軍との対峙を回避したことから信頼を失っていきます。そして左派はMDB党から分か れPSB党を結成します。D(デモクラシア)からS(ソシアリスタ)への転換です。

 

89年大統領選挙

89年の大統領選挙は、新憲法による最初の大統領選挙で、64年のクーデター以来25年ぶりの直接選挙となりました。

軍と対決し民主主義を守り抜いた労働者勢力は、労働者党(PT)のルーラを大統領候補にすえ、89年大統領選挙に臨みます。結果は中道右派のコロー ルの当選に終わりましたが、決定的に重要なことは、ルーラが16%を獲得し、既成政治家を抑えて第二位に食い込んだことです。そして舞台はコロール対ルー ラの決選投票へと移ります。

これには当の本人もびっくりしたかもしれませんが、資本家階級にはまさしくパニックでした。金持ち階級は手持ちの財産をドルに代え始めます。サンパウロの産業連盟会長は「ルーラが当選すれば80万人の企業家がブラジルから脱出して、ブラジル経済は疲弊の どん底に陥る」と語りました。コロル陣営は「ルラは金持ちの代表、コロルこそ貧乏人の味方」と宣伝。さらにルラの元恋人に1万ドルを与え、テレビで「ルラは娘を妊娠したとき、中絶しろといった。ルラは黒人差別主義者だ」と語らせました。

世論調査によると、高所得者ではルラが48%、コロルが41%。高学歴層ではルラがコロルを圧倒。これに対し低所得者層ではルラが38%、 コロルが53%と逆転。とくにノルヂスチの農村ではコロルが圧倒的人気でした。ルーラを最も支持すべき人々が反ルーラだったことになります。よくある現象 です。

ルーラは追い上げ及ばず惜敗することになりますが、次回の当選は約束されたようなものでした。しかし実際はその後12年を要することになり ます。選挙を終えて、PTと民主労働党、共産党(PCdoB)、MDB党左派は共同声明を発表。今後もコロールとの闘いを共同して強化すると宣言します。