Ⅱ 反軍政闘争の発展と弾圧の強化

A 反軍政運動の昂揚

68年は反軍政の闘争が最大の盛り上がりを見せた年でした。

最初は3月、政府の文教軽視政策と教育予算の貧困に抗議する運動が始まりました。リオデジャネイロでのデモ行進に参加した高校生エドソン・ ルイスは、目抜き通りで軍警察に射殺されました。ルイスの葬儀には5万人の市民が参加しました。世論は学生たちに同情的でした。「学生を殺した.彼の子供 だったかもしれないのに」との抗議の声が広がります。

殉教者が出たことで、闘争は一段と激しさを増しました。3月末には全国で抗議行動が展開され、リオデジャネイロとゴイアニアでさらに3人が 死亡します.4月初めには学生虐殺抗議集会が開かれ、軍警察との衝突で30人が負傷します。軍はリオデジャネイロの中心部に戒厳状態を敷きます。カンデラ リア教会の葬儀ミサにも軍警察が突入、600人を逮捕します。

シルバ大統領は一切の宥和的ポーズをかなぐり捨て、軍お抱え政党以外のすべての政党と政治活動を禁止し、「ゴリラ独裁」と呼ばれたもっとも野蛮な独裁体制に移行します。自治体選挙もすべて中止されます。

6月には「血の金曜日」事件と呼ばれる闘いが起きています。これはデモ隊の学生400人が軍警察の弾圧に抗議し、国会に突入したりアメリカ 大使館を襲撃したりした事件で、8時間の衝突で警官1人をふくむ28人が死亡しました。(当時、まだ議会や各国大使館は旧首都リオデジャネイロにあった)

学生の英雄的な戦いに励まされて一般市民も立ち上がるようになります。6月26日、リオの抗議集会は当日にビラをまく程度の呼びかけだった にもかかわらず10万人が結集しました。民主的自由の復活をもとめる自然発生的なデモといえるでしょう。クーデター以降最大規模の反政府集会となりまし た。

サンパウロ大学では校舎を占拠した学生と教官との共闘委員会が設立されました。危機感を抱いた政府は大学ごと閉鎖してしまいます。サンパウ ロ州の金属労働者は軍政反対のストライキに入りました。パッサリーニョ労相は「労働者が立ち退かなければ,機関銃の的となるだろう」と警告しました.いや しくも労働大臣の口にするセリフではありません。

学生運動の経過については下記が詳しい。ただしポルトガル語。http://www.mme.org.br/main.asp?ViewID={017C677B-B51B-4952-8C5E-89EC5C37A9D0} 

 

B 軍政の反撃とゴリラ独裁

7月に入ると、シルバ政権はいっそうの弾圧に入ります。5日に国内における集会・デモを禁止.17日には街頭での抗議行動をいっさい禁止すると発表します.

国家情報部(SNI)、陸軍情報部(CIE)は、さらに卑劣な手段を弄するようになりました。民間人を装った軍人による白色テロです。シ コ・ブアルキといえばブラジルのポップス歌手として有名ですが、民主化運動を支持していました。彼の出演する番組にあわせて放送局に爆弾が仕掛けられまし た。ブラジル新聞協会のビルや、左翼系書店でも爆弾事件が発生しました。

サンパウロ州の金属労働者のストは軍の装甲車と機関銃の前に押さえ込まれました。その後のきびしい弾圧の中で労働運動は壊滅.多くの活動家が「行方不明」 となっていきます.ラテンアメリカで「行方不明」(デサパレシードス)と言えば、軍による誘拐・拷問・虐殺・死体遺棄のことです。

活動家たちはいっせいに地下に潜行しますが、当局の摘発は過酷でした。8月にはリオの都学連委員長パルメイラ、ブラジリアのギマリャンエス全学連委員長が相次いで逮捕されました。このときブラジリアでは軍警察が、大学の自治を無視して構内に突入しています。

御用政党の議員ではありますがMDBのマルシオ・モレイラは、議会演説で軍事政権と軍政令を批判し、ブラジリア大学への官憲導入を非難しまし た.それさえも脅迫の対象となります。政府は「モレイラ・アルベスの演説は高いものにつくだろう」とヤクザまがいの回答を示しました.

学生たちが占拠したサンパウロ大学哲学部は、民主化をもとめる活動家の最後の拠点となっていましたが、政府は右翼学生を利用して暴力突破を 図ります。「マリア・アントニア通りのたたかい」と呼ばれる武力衝突で高校生が死亡、これを理由に警察が構内に突入しストライキを解除します。

10月12日、学生たちはサンパウロの郊外イビウーナで秘密裏に全学連再建大会を開きますが、情報を得た警察は、大会に乱入し学生ら1,240人を一網打尽にします.これで合法活動は息の根を止められました。

ルーラの下で大統領府長官を勤めたディルセウ(Jose Dirceu de Oliveira e Silva)も、このときの逮捕者の一人。彼は後にエルブリック米大使との交換で釈放されキューバに亡命。その後75年に整形手術で人相を変えたあとブラ ジルに潜入。85年の民主化まで偽名を用いて活動を続けた。

12月、議会の最後の抵抗がありました。軍は議会に対しアルベス議員の逮捕承認をもとめます。刑法犯でなく、軍部を批判しただけの理由で不逮捕特権を停止することは立法府としてはさすがに首肯できかねるものがあります。

アルベス議員はふたたび激しい軍部批判演説をおこないました.採決の結果、議会はアルベス議員の不逮捕特権剥奪提案を否決するに至ります。基本としては御用政党のみで形成されている国会で、141対216票というからかなりの大差です。

これを聞いたシルバ大統領ら軍部タカ派は激怒しました。とくに「民主主義」を守り本尊のようにかかげるアメリカがどう出るかは、彼らにとっ て死活問題でもあったからです。彼らが下した結論は、さらに軍事独裁の道を突き進むことでした。アメリカは結果さえ出せばオーライだと踏んだわけです。

翌日12月13日、軍・政府は第二次クーデターを決行し議会を閉鎖しました。自分の政府を自分で倒すので「自主クーデター」と呼ばれます。 そこで出されたのが悪名高い軍政令第5号です。報道機関は政府の全面的統制下に置かれ,人身保護法は停止され,裁判権は軍事法廷にうつされました.

クビチェック元大統領を始め、軍事政府に距離を置く政治家・ ジャーナリスト2百名が、その日のうちに逮捕されました。社会活動の指導者・著名人の多くも拘留され、政治的権利を剥奪されました。もっとも、どうせ国民 には政治的権利などないのですが… 音楽の世界で言うと、カエターノ・ヴェローゾ,ジルベルト・ジルなども逮捕・収監されます。罪状は軍事独裁に反対し た、ただそれだけのことです。

司法の権利も軍に簒奪されます。軍は意向に沿わない最高裁判事3名を解任しました.オリベイラ最高裁長官は抗議の意をこめて辞職します(何をいまさらとも思いますが).年が明けて知識人の大量逮捕が始まりました.70名の議員があらたに資格を剥奪されました.

当初、軍事政権支持を掲げたカトリック司教会議は,この頃から公然と政府批判を開始。教会が反独裁活動家のアジトとなって行きます.