高谷先生は重傷心身障害児施設「びわこ学園」の前園長、このたび岩波新書で「重い障害を生きること」という本を出された。

聞いただけでも重い本だ。

論点の中心は「障害のある人が生きる姿を“かわいそうなのか”という問い」にある。これ自体が相当、分析的な表現だ。

論理的には三つの問いがある。障害者は“かわいそう”な存在なのか、障害者が生きて行くことは“かわいそう”なのか、我々はその姿を“かわいそう”と捉えるべきなのか、
それらすべてをふくんで、「障害のある人が生きる姿を“かわいそうなのか”という問い」という表現に行き着いているのである。


高谷先生の答えは、こんな言葉から始まっている。

診察時に気づいた入所者のこわばった体や、苦痛の表情に、「こんなに苦しい思いをしてまで生きているのがよいのか?」と考えたこともありました。
施設を訪れた人は、人生で出会ったことも想像したこともない姿に言葉をなくすといいます。

これは素朴な感想であると同時に、他者性の認識と言うか、異形な“生”を突きつけられた“たじろぎ”である。“同じ人間だ”ということで一括リには出来ない人たちが存在するということだ。その結果、これまで持っていた価値観の限界が露呈されることになる。

高谷先生は率直に、「生きているのがかわいそう」と述べる。自然と沸く「憐憫の情」をむずかしい理屈で否定する必要はない。「そう考えていいんだよ」ということだ。

そこからどう出発するか、どこから手を着けるか? ありがたいことに医者には固有の業務がある。

だいじなのは、この子らが、生きていてうれしい、気持ちがいいと感じる状態になれるということ、それを支えるのが僕らの仕事なんです。

医者なら、哲学的に考えてどうしたらよいのかは分からなくても、医学的にどうしたらよいのかは条件反射的に浮かんでくる。ある意味割り切って、するべき仕事をする、ここがだいじなのだ。尊厳死など考えている暇はないのだ。

仕事は三段階に分かれている。究極的には“生きていてうれしい”と思えるようにすることだ。そのためには“気持ちがいい”という快感を味わえるようにすることだ。そして、そのためには“気持ちがいい”という快感を味うために必要な心身の状況を作り出すことだ。

高谷先生はこうも言っている。

障害の重い人が、苦痛の少ない状態で生きていけるようにする取り組み

普通、人間の体は人間を支えるためにあるものだ。障害者、特に障害の重い人では、身体が人間を支えるのではなく、苦痛というかたちで人間の足を引っ張っていることになる。

だからせめて苦痛をとってやれば、気持ちがいいという気分になるかもしれないし、ひょっとしたら“生きていてうれしい”と思えるようになるかもしれないのだ。

(なぜなら障害者は身体が支えにならず、それどころか足を引っ張っているにもかかわらず生きている。生きているし、生きる力を持っているからだ。
もちろん人間の内面の問題は大きい。そこに切り込むのはとてもむずかしい。しかしそのための条件を作り出すことは可能なのだ)


そしてその作業(医療その他のケアー)は、すくなくとも倫理的に(かわいそうだからといって)、拒否されるべきではない作業なのだ。

障害者はお母さんの声やぬくもりを感じるとリラックスして呼吸も楽になる。どんなに障害が重くても気持ちがいいと表情が晴れます。

高谷先生はこの瞬間を大事にしている。一日一日の営みの中の、「気持ちいい」という瞬間が、一粒一粒重なって「生きていく喜び」となると考えている。

高谷先生は、この取組を、「向上へとつながっていく」教育の取組でもあると考えるようになって来た。医師であるのに教育賞を受賞したことがきっかけであった。教育賞をもらうにあたってその意味を自分なりに考えたのである。

その言葉は教育に対する深い問いかけでもあるだろう。


字数の制限からであろう、いくつか脈絡の取れないところもある。
「この子らを世の光に」という言葉、
「人間、“希望”だけで生きていけると思うんですよ」というときの“希望”の意味。

私は老人施設で認知症の方々を相手にしているので、「世の光」とか「希望」といわれてもさすがにピンと来ない。