世界政治のバックナンバー回顧もいよいよ大詰めになってきた。

88年6月上旬号に増田紘一氏のブラジル共産党(PCB)機関紙祭り参加録が掲載されている。当時読んでいたことは間違いない。ちゃんと年表に織り込まれている。

しかし「あれっ変だな」と思ったことも間違いない。だから実事求是でやってきたつもりだ。今となっては私のほうが正しかったようだ。

ということで、記事を以下に転載する。

ブラジル共産党は58年3月に自主的な立場を発展させるよう決定した。だがブラジル革命は10月革命と同じでなければならないとい考えは根強く続いた。
さらに中国革命と同じでなければならないという潮流も生まれた。50年代の終わりから60年代のはじめにかけてである。武装闘争唯一論である。
この潮流は60年の代5回党大会で政治的に敗北し、62年に別党PCdoBを結成し、革命の平和的な道に反対して、中国式の農村から都市を包囲するとか長期人民戦争論に基づく武装闘争路線を主張した。
毛沢東路線の誤りが明らかになって後、このグループはアルバニア派に変わった。最近ではアルバニアのことも口にしなくなっているという。しかしこのグループはPCBよりも1議席多い4名の下院議員を持っている。
毛沢東盲従派の分裂に続いて、ブラジル革命はキューバ革命と同じでなければならないという潮流の発生だった。キューバ革命のモデルをその独自の特殊性を除き規範として解釈したのである、という。
このグループは、クーデター直前は革命前夜であったとし、PCBは右翼的誤りを犯したと批判し、武装闘争路線を主張した。このグループが若干の指導部のメンバーだけでなく、若い世代の多くを引き連れていったために打撃は大きかったといわれている。
こうした外国の武装闘争の経験の無批判的な移植は繰り返し起こり、その都度分裂を産み、党を弱体化した。

これらのPCB幹部の主張が全くのお笑い種であったことは、いまではかなり明らかになっている。PCBの「武装闘争」批判論は、体を張って権利を守りぬく現場の闘争とは無縁の議会主義クレチン病の世界である。