赤旗文化面で高橋哲哉教授のインタビューが載っている。
「犠牲のシステム」というのだが、どうもいまひとつピンとこない。

そこのところよりも、“生半可な政権交代くらいではびくともしない戦後日本の国家システムが、その露頭を現わしています”という指摘が印象的である。
その例として二つあげている。
ひとつが鳩山内閣の普天間問題での挫折、もうひとつが菅政権の「脱原発」宣言である。

時の政権の政策に拠らない、もっと深部の構造というのがあって、ある意味で国民の血肉と化し、構造化されているという指摘は鋭いと思う。

しかし私からすると、そのことによって逆に「システム」が露頭を現わしたことに意義があるのだろうと思う。「びくともしなかった」深部の岩盤が、どうも揺らぎ始めたようだ。だから「露頭」が現れたのであろう。

ただそれを「犠牲のシステム」と規定するのは、どうだろうか。
政治・経済の枠組みを越えたもっと深い構造物があるだろうということは分かる。むかし全共闘の諸君は「戦後民主主義の虚妄を解体せよ」と呼んでいた。

とにかく得体の知れないもので、目下のところ「群盲、象をなでる」の域を出ないが、「露頭」の底には何かありそうだという辺りではコンセンサスが成立する。
いまは、構造やシステムそのものを云々するよりは、その表現系であるさまざまな「神話」を分析的に追求するほうが生産的だろうと思う。
医学の研究では、まず症候群として存在を確定する。ついで臨床研究により診断基準を確定する。その後に病理学的検討を加えて疾患としてのエンタイティを確立するという手続きを踏むことになる。


私が考えるには、この「システム」が生み出した数多くの神話、たとえば「日本は輸出しないと食べていけません」神話、「日本はアメリカなしに生きていけません」神話、「会社あっての社会です」神話、「国際競争力」神話、「ソ連が攻めてくる」神話、「朝鮮人・中国人劣等民族」神話、「中流階級」神話、「トリクルダウン神話」、「原子力は未来のエネルギー」神話、「自民党不敗神話」などなど。
それらを、たんに否定し拒否するのではなく、その拠って来るところを探っていくのが最初の足がかりだろうと思う。

戦後60年の“成功体験”によって培われた“素直な”、しかしいびつな感情を日本人は共有している。それは半ばは支配階級によって吹き込まれたものだが、幾分は自然発生的な排外主義によって強化されている。そこをピンセットでより分け、剥離しながら「システム」に迫っていくことになるだろう。

ということで、現下の状況を「国家システムが“ぬっと”露頭を現わした」と表現するのは、良いことだろうと思います。私は経団連の米倉会長がしゃしゃり出てきたときに「野郎、とうとう出てきやがったな」と感じました。原発でJR東海や東レの社長が前面に出てきたり、どうも黒子がはしゃいでいるようにも見えますが、とにかくこういう人々との勝負が本当の勝負でしょう。

あとは、まだ尻尾を出さない財務、通産、国土省あたりのトップ・OB・テクノクラート集団ですかね。