10年から20年ほどを遡る昔、グローバリゼーションと新自由主義の象徴がM&Aだった。
しかしM&Aが新自由主義経済の帰結であってよいのか。否でも応でもそのことについて考え直す時期なのではないか。この2つは分けて考えてもいいのではないか、むしろ分けるべきではないのか、不良企業は淘汰されなければならないにしても、そのやり方はもっと工夫しても良いのではないか。少なくともそこには国家の主権が介在すべきではないのか。
この問題が議論の大枠を規定していると思う。
随分前に、ノンフィクションで「相場師」の列伝を読んだことがある。生糸相場や米相場、「大手亡」をめぐるシテ戦というのはものすごいものだと息を飲んだ覚えがある。降っては白木屋の乗っ取りをめぐる横井秀樹のたたかい、ピストル提と呼ばれた西武鉄道の堤康次郎、強盗慶太と呼ばれた東急の五島慶太など、ヤクザの殺し屋を挟んでそれなりに息詰まるような迫力だった。

しかしプラザ合意と日米協議を挟んで俄然様相は変わった。
日本で長期信用銀行に多額の公的資金がつぎ込まれた。かろうじて生き延びた本体はハイエナファンドの餌食となり、連中は濡れ手に粟のボロ儲けをした。

M&Aは突然やって来る。市場は匿名である。金に名札はついていないから、名乗り出るまで分からない。
学生時代に深夜放送「オールナイトニッポン」で愛聴していた「カメ」こと亀渕アナが、いまや日本放送の社長だとは知らなかった。それがある日、ホリエモンからM&Aをかけられたことで突然有名になった。

このくらいなら笑い話で済むが、ソニーやパナソニックがある日突然M&Aをかけられて、中国企業のものとなる日は遠くないのである。先日のライオン歯磨の話は、それが現実のものであることを示している。

M&Aこそは最大の恐怖、そのために日本企業はせっせと内部留保を積みましている、という構図が確かにある。

私達はそれを信じたい。しかし、一方では観念している。それまで国際競争力のためといって従業員や国民に犠牲を敷いていた企業トップが、ある日突然会社を売って利益を持ち逃げする日は遠くないのである。
問題は、その日を戦戦恐恐と怯えて暮らすのか、それともM&Aお構いなしの新自由主義に歯止めを掛けるのかという日本国としての決断であり、決意である。グローバリゼーションが必然であるかぎり、それとどう向きあうのか、根本的な判断が迫られている。