与謝野晶子の「君死にたもうことなかれ: 旅順口包囲軍の中に在る弟を歎きて」、日本を代表する詩である。
刃(やいば)を呑んだ詩で、100年後の今も恐ろしい詩でもある。
“そこまで言っていいんかい”、が3ヶ所ある。

旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ

すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね

かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは

これを家の倫理で辛うじてオブラートに包んで、
ぬっと突き出した。
しかしオブラートだから半ば透けて見える。
家の倫理というのは、実は仏の教え、浄土真宗の論理ではないか、と思う。
廃仏毀釈の折から、店先には神棚が飾られているが、奥の座敷にはしっかり仏壇がましましている、という具合である。

晶子は天皇制の押し付ける倫理に家族の“情”を対置したのではなく、もう一つの倫理を以って対抗しているのだと思う。“獣の道”にたいする“仏の道”である。叙情に流されない、凛とした鋼の強靭さはそこから生まれているのだと思う。


これに作曲した吉田隆子という人がいて、その紹介を赤旗に形成している。
15年ほど前に、小樽の多喜二祭のときにこの曲を聞いたが、正直それほど感動はしなかった。この詩は、詩ではあっても詞ではない。ささやき声のシュプレヒコールだ。
ただ吉田隆子の生き方には興味がある。


旅順の城は滅ぶとも、ほろびずとても何事ぞ
というくだりは、いまでもそのまま使える。

ソニーやナショナル滅ぶとも、ほろびずとても何事ぞ

ということになる。

優遇税制を温存して、法人税を下げて、そのツケを庶民に回すのは、かつて“すめらみこと” をたてに、国民に “獣の道” を押し付けた連中と選ぶところはない。
生類哀れみの考えからすれば、可哀そうといえないこともないが、こちらまで巻き添えにされるのは真っ平だ。