2001年後半期の日銀議事録が公開された。
この年3月に、いまだに議論となっている量的緩和政策が導入された年である。
導入されただけではなく、その年の8月、9月、12月と三回にわたり量的緩和を強化している。
注目されるのは当時から、トップもふくめ誰も量的緩和の効果など信じていなかったということだ。
たとえば山口副総裁は「客観情勢の厳しさに比べて日銀がとりうる政策は非常に苦しい選択にならざるを得ない」と、問わず語りに効果を疑問視している。
須田委員は、日銀が供給した資金が日銀当座預金に滞留し、企業向け貸し出しなどに回らない状況を「死に金」と切り棄てている。
そして3月、8月、9月と3回にわたる緩和を経て10月の会合では、中原委員が項発言している。
「8月以降の緩和の実体経済への効果はいまやほとんどなく、当座預金残高目標を引き上げることの限界効果はほとんど見られない」


要するにこの時点でサプライサイドの経済主導を説く新自由主義は、完全に壁にぶち当たっていたのである。
しかも厄介なことに、ばら撒いた金は放射性廃棄物のように回収が困難である。回収を急いだ日銀が、金融不況を生み出したことは周知の通りで、バーナンキが力説したところである。
しかしバーナンキはそこから逆の結論を引き出した。「やるんなら、もっと徹底的にやれ」というばかりに、QE2を主導した。これを博打と言わずしてなんと言う。
かくしてその後の10年、日本と世界の金融政策は奈落の底への一本道を転げ落ちていくことになる。