1992年

1月 モロッコの異議により住民投票が延期される。スペインが1970年代に住民投票のため作成した住民名簿を基礎とした有権者名簿にたいし、12万人のモロッコ側名簿を加えるよう要求。

1997年

9月 ベーカー元米国務長官、国連事務総長「個人特使」として当事者間仲介。有権者認定作業を再開することで合意(ヒューストン合意)。

1998年

6月 ベーカー提案が暗礁に乗り上げる。

1999年

7月 モロッコ国王ハサン2世死去、ムハンマド6世が即位

2001年

2月 アナン国連事務総長、5年間のモロッコ主権下での自治のあと、独立・自治・モロッコ統合のいずれかを選ぶ住民投票という2段階・三択計画を提案する。ポリサリオ戦線はこれを拒否するが03年には受け入れる。

2002年

11月 ムハンマド6世、テレビ演説で「国連の住民投票計画はもはや有効でなく、住民投票は受け入れられない」と声明。

02年 東チモールが国連投票で独立を実現。

2003年

5月 「西サハラ人民の自決のための和平プラン」が提案される。5年間の暫定自治を経て、独立・自治・モロッコ統合のいずれかを選択するというもの。

7月 ポリサリオ戦線が「和平プラン」を受諾。これを受け、国連安保理が「和平プラン」を支持する決議を採択。

11月 ポリサリオ戦線は、モロッコ人捕虜300人を解放したと発表。捕虜たちの本国帰還は赤十字国際委員会に委ねられる。モロッコ政府は捕虜の存在を認めていなかった。

2004年

4月 モロッコは「和平プラン」を正式に拒否。自治のみが唯一の解決であるとの姿勢を鮮明にし、独立を選択肢に含む住民投票という構想を拒否。

2008年

2月 サハラ・アラブ民主共和国、ティファリティを臨時首都として宣言(正式の首都はラユーン)。

2009年

インティファダの女性指導者アミナトゥ・ハイダー、アメリカで市民の勇気賞(Civil Courage Prize)を受賞。モロッコから帰国を拒否され、カナリア諸島の空港で30日間のハンストを行なう。

2010年

9.21 モロッコ自治領化を主張したポリサリオ監察総監がポリサリオ武装派により誘拐・監禁される。人権団体がいっせいに非難したためまもなく解放。

9月 モロッコ政府、1月以降1360人がティンドゥフを脱走しモロッコに帰還していると報道。

10.13 西サハラ・モロッコ占領地でのインティファーダが始まる。首都ラユーンから15キロ離れた砂漠で「蜂起キャンプ」を設営。経済上の正義の要求を前面に抗議活動を開始する。キャンプへの結集者は瞬く間に拡大し、女性・子供・老人を含め1万人以上が参加する。

10.25 モロッコ占領軍が「蜂起キャンプ」に物資を運ぶ14才の西サハラ人少年を射殺。少年の兄二人をふくむ7人も銃撃され、病院に運ばれる。

10.29 モロッコ内務省、「検問に当たっていたモロッコ兵に向け2台の四輪駆動車が突然発砲してきた。モロッ コ兵は応戦し、14才の少年が死亡、7人が軽傷」と発表。「モロッコ国王に刃向かう国際テロリストの犯罪行為」と非難する。

11.02 現地の人道援助団体、「モロッコ軍が居留区に乱入し活動家を拘束している」とBBCに通報。国際支援をもとめる。

サンフランシスコ大学のズーヌス教授は「デモクラシー・ナウ!」で次のように語っている。
 西サハラの活動は、女性の権利と民主主義を求める非暴力の闘争です。それこそ西洋の国々がアラブに求めたものではないのか? それなのに欧米は専制君主を助けて非暴力の抵抗を弾圧させている。…西サハラの唯一の希望は東チモールで見られたような世界の市民社会が団結した国際連帯運動です。

11.08 モロッコの治安部隊が抗議キャンプを攻撃。アイウンは封鎖され、報道関係者は強制的に国外追放される。

11.11 モロッコ当局、死者は12人、そのうちモロッコ警察が10人と発表。モロッコ国内では事件は報道されず。

11.09 ポリサリオ戦線、サハラ人の死者は11人、723人が負傷、行方不明159人と発表。