1981年

3月 アメリカはモロッコに対し1億ドルの軍事援助を開始。アメリカ式訓練を受けたモロッコ軍特殊部隊がアガディールとタンタンに派遣される。部隊は人民解放軍の待ち伏せ攻撃を受け甚大な被害を出す。

6月 第一次の「砂の壁」が完成する。大西洋沿岸から内陸のアルジェリア国境の近くにまで達する全長700キロの長城が姿を現わす。

6.24 アフリカ統一機構の第18回首脳会議(ナイロビ)で、モロッコは西サハラでの住民投票受け入れを宣言。しかしポリサリオ戦線を紛争当事者と認めず、住民投票も「モロッコの主権を確認するためのもの」と主張。

8月 コジョOAU事務総長はRASDに加盟承認を通告

10月 アルジェリアの軍事支援を受けた西サハラ人民解放軍は国土の90%を解放。モロッコは派遣軍を8万人か ら13万人に増員して対抗。

“首都”ティンドゥフ: 4つの難民キャンプには合わせて約15万人が住み、モロッコ占領下の最も重要な都市名を取ってエル・アイウン、スマラ、アウセルト、ダクラと名付けられている。更に各省庁、キャンプ各地域の管理局、病院や診療室、幼稚園、小学校、女性のための職業学校、婦人団体、菜園、放送局などがある。

81年 劣勢に追い込まれたモロッコは、北部にエルアイウン(首都)・スマラ・ブクラを結ぶ「重要三角地帯」を設定する。人民解放軍はただちに三角地帯の拠点ゲルタ・ゼムールを攻撃し甚大な被害を与える。

1982年

2.22 アジスアベバでOAU外相会議。RASDが出席。モロッコおよび18か国が退席し流会に追い込む。

5.27 ハッサンがワシントンを訪問し軍事援助をもとめる。EUを経由して1億ドルの軍事援助が提供されることとなる。

1983年

6.08 OAU首脳会議、モロッコとポリサリオ戦線を紛争当事者として初めて明記。直接交渉を求める決議を採択。

83年末 ハッサン二世、参謀本部を全面更迭。アメリカ式の装備に切り替える。

1984年

2.27 モーリタニアがRASDの独立を承認。

10月 ポリサリオ戦線、三角地帯の壁を同時攻撃。ズムール・二ランで防御線を突破する。その後は砂の壁を攻めあぐねる。

11月 OAU首脳会議にRASDが正式加盟。モロッコはOAU脱退を宣言する。

1987年

モロッコが建設を進めて来た「砂の壁」が完成。

砂の壁: 国土を東西に隔てる全長2千キロの防衛線。イスラエル軍の協力によって建設された。砂を高さ数メートルに積み上げて作ったもので、その周辺は鉄条網と地雷原で防御されている。

1988年

モロッコとポリサリオの双方が、国連事務総長の和平提案を受諾。

1989年

1月 ポリサリオ上級幹部がマラケシュでハサン2世と秘密会談。モロッコは住民投票の受け入れを了承する。

1990年

6月 包括和平案が国連安保理決議658として採択される。独立かモロッコ統合かを住民投票で選択することが骨子で、OAU枠組み案を踏襲する。

1991年

4月 国際連合の仲介でポリサリオ戦線とモロッコが停戦。モロッコ帰属か独立かを問う住民投票を実施することになる。

8月 国連西サハラ住民投票監視団(MINURSO)が創設される。

9月 ポリサリオ戦線とモロッコとの停戦が発効する。