1975年

2月 「統一解放戦線」(FLU)が北部で戦闘を開始。スペイン軍とポリサリオ戦線の双方に敵対する行動。実態はモロッコ政府軍の一部とされる。

その頃のモロッコは国王ハッサン2世が国防相・参謀総長を兼任していた。ハッサン独裁への軍部の不満は強く、王宮襲撃事件や国王専用機銃撃事件が続いていた。これらの矛盾を国外にそらすことに最大の目的があったとされる。

75年前半 国連現地調査使節団、圧倒的多数のサハラウイが併合ではなく独立を支持と報告。都市部以外のすべてはポリサリオ戦線が支配するにいたる。

75年 カルロス皇太子がエルアイウンを訪問、西サハラの独立をあらゆる方策で保障すると述べる。

10月 国際司法裁判所、モロッコの西サハラ領有権を否定する裁定。ハッサン2世は裁定受け入れを拒否し、「緑の行進」を呼びかける。

判決の要旨: 西サハラとモロッコ、あるいはモーリタニアの間には、歴史上いかなる領土上の主権関係もなかった。スペインによる植民地化の時点では西サハラは「主なき地」ではなかった。

10.31 モロッコ軍8千人が国境を越え軍事占領作戦を展開。(この項真偽不明)

11.06 モロッコは35万人を動員した「緑の行進」を強行。ハッサン2世は「いかなる専制君主といえど も。非武装の35万人に発砲を命じることは出来まい」と扇動。

緑の行進の実態: ①35万人は主催者発表であり実数は不明、②行進団の上空にはモロッコ空軍機が旋回しており、非武装とはいえない、③モロッコ政府軍の別働隊であるFLUがポリサリオ戦線との衝突を繰り返していた、④行進団は国境から12キロの地雷原で反転、そのまま国内に戻った。

11.06 モーリタニアが南部から侵入。2万の軍が南部リオ・デ・オロ地方の中心地ゲラを占領。(この項真偽不明)

11.06 国連決議380号、「行進に参加した全モロッコ人の即時引き上げ」をもとめる。アルジェリア領内に大量の難民が流出。スペイン政府は民間人や兵士の家族に退去を命じる。

11.14 マドリードでスペインとモロッコ、モーリタニアの三国会談。秘密協定で、スペインは西サハラの分割譲渡を認める。燐鉱山は、所有権をモロッコ2、スペイン1の割合で分割することで合意。

11.20 フランコ総統が死去。スペインは西サハラへの関心を完全に失う。

11.25 モロッコ正規軍4000名が国境を越えて侵攻。

11.28 諮問議会「ジェマー」、独立を支持する「ゲルタ・ゼムール宣言」を発する。ジェマーを解散するとともに、ポリサリオ戦線こそが西サハラ唯一の合法的権威であるとする。

「ジェマー」はスペインが開設した現地人の諮問議会。宣言には議員の3分の2のほか、西サハラ選出のスペイン国会議員3人、60人の族長が署名した。

12.10 モーリタニア軍が侵入。スペイン駐留軍基地の撤収跡を確保するためポリサリオ戦線との戦闘が繰り返される。

ポリサリオ戦線はモーリタニア軍の後方基地を襲い、越境してモーリタニア軍拠点を攻撃するなど多彩な攻撃を展開。司令官エル・ワリは神出鬼没の活躍ぶりから「サハラの狼」と呼ばれた。

12月 長老層や旧「サハラ解放軍」兵士らがポリサリオに合流し、「臨時サハラウイ国民評議会」を創設。

1976年

1.12 スペイン軍の最終部隊がダクラから引き揚げる。これに代わりモーリタニア軍がダクラに進駐。

1月 エル・ウアリ・ムスタファ・サイードのひきいるポリサリオ戦線は、住民を道連れに奥地への遅延撤退作戦を展開。モロッコ軍がナパーム弾で難民の列を爆撃。

1.21 モロッコ空軍のF5戦闘機がポリサリオ戦線によって撃墜される。対空兵器はアルジェリアから持ち込まれたものであった。

1月末 アルジェリア国営通信、自国軍がモロッコ軍と衝突したと公表する。

2.14 アルジェリア軍、難民の移動完了を見て、西サハラ領内より撤収。

2.26 スペインが最終的に西サハラの領有を放棄。

2.27 アルジェリア領内ティンドゥフに形成された難民キャンプを拠点として「サハラ・アラブ民主共和国」の建国を宣言。

サハラ・アラブ民主共和国: Sahrawi Arab Democratic Republic (SADR) と称される。アルジェリアとリビアが支援に回った。実質的行政機能はアルジェに置かれる。

3.01 アフリカ統一機構、西サハラへの支持を表明。

4.14 モロッコとモーリタニアが西サハラの分割ラインを決定。

6.07 ポリサリオ戦線、モーリタニアの首都ヌアクショットへの急襲作戦。ランドローバーやトラックに分乗した兵士600人がティンドゥフを出発。

6.09 ポリサリオ戦線がヌアクショット市内に突入。一時は大統領官邸付近に迫撃砲弾を撃ち込むが結局は撃退される。ポリサリオ戦線側の戦死者は200人を数え、この闘いでエル・ウワリが戦死。

7月 モロッコのラバトでハッサン二世とモーリタニアのウルド・ダッダ大統領が会談。「相互防衛条約」に調印する。モロッコ軍3千人がモーリタニア支配地域に展開。さらにフランス人の「ジャガール飛行部隊」が制空権を確保する。

8月 ポリサリオ戦線の第3回大会。エル・ウワリに代わりムハメッド・アブデルアジズが書記長に選出される。サハラ人民解放軍(ALPS)を編成する。

8.30 アブデルアジズ、第3代のサハラ・アラブ民主共和国大統領となる。

10月 ポリサリオ戦線が軍事攻勢を再開。ヌアクショットも少人数コマンドによる反復攻撃の対象となる。

1977年

5.01 西サハラ解放軍が「エル・ウアリ作戦」を実施。モーリタニアのゾエラットを攻撃。3週間にわたる戦闘の後占領。

ゾエラットには鉄鉱山があり、モーリタニア経済の心臓部とされる。モーリタニアは戦費増大に加え、資金源の鉄鉱山を叩かれたため経済危機に陥る。

5.01 ゾエラットに駐在していたフランス人6人が人質となる。ポリサリオ戦線は人質と交換にフランス政府の独立承認を要求。のちにフランス共産党の仲介によって解放される。

5.13 モーリタニア、モロッコとの相互防衛協定に調印。モーリタニア領へのモロッコ軍駐留が開始される。

7.03 エル・ウワリ戦死1周年を期して、西サハラ解放軍がヌアクショットを攻撃。攻撃は1週間にわたり続く。

7.20 モロッコ、モーリタニアに600人の増援部隊を派遣。

11月 モーリタニア軍と組んだフランスの「ジャガール」と「ミラージュ」の飛行部隊が進出し、制空権を握る

1978年

6月 モーリタニアのウルド・ダッダ大統領がクーデターにより失脚。

7.12 ポリサリオ戦線はモーリタニアに対する一方的戦闘停止を指示。

8.05 アルジェでポリサリオとモーリタニアの間に停戦協定成立。このあと戦いは西サハラ人民解放軍とモロッコ軍との間に絞られる。人民解放軍はリン鉱山を反復襲撃し操業停止に追い込む。

11月 フランス人飛行部隊が撤退。モロッコ軍はフランス軍の援助を受け反ゲリラ部隊「緊急介入部隊」(DIR)を編成。ゲリラ根絶のため焦土作戦を実施する。

1979年 

1.29 ポリサリオ戦線、「ブーメジエン攻勢」を開始。国境を越えモロッコ国内に侵入。レムサイルの戦闘で勝利し、タンタンを一時占拠。モロッコ軍2個連隊を壊滅に追い込む。(ブーメディエンは当時のアルジェリア大統領)

7月 第17回OAU首脳会議、西サハラにおける自決住民投票を骨子とする決議を採択。サハラ共和国のOAU加盟についても過半数の国が賛同するが、モロッコの脱退の脅しの前に、採択を保留する。

8.05 モーリタニアとポリサリオ戦線が和平協定を締結。モーリタニアは西サハラに対する領有権主張を放棄、相互不可侵と国境の尊重、モーリタニア占領地域のポリサリオへの引き渡しを約す。

8.14 モロッコは和平協定を無効と宣言。モーリタニア占領地域もふくめ西サハラ全土を自国に併合する。

9月 ハバナで開かれた非同盟首脳会議、西サハラからの全占領軍撤退を求める決議を採択。

79年末 ポリサリオ戦線の大攻勢。解放区は西サハラ全体の8割に達する。サハラ・アラブ民主共和国を34カ国が承認する。

79年末 モロッコ軍、制空権確保を中核とするアメリカ式戦術への切り替えを開始する。モロッコ国内に5つの基地を持つアメリカが軍事支援を強める。

モロッコの新戦略: 「国家防衛評議会」を新設し国王の義兄弟アフメド・オスマンが議長に就任。装甲車やジープ、ヘリコプターなどで機動性を高め、対ゲリラ戦機能を強化。砂の壁の構築を柱とする。