ロシアの外務次官が「一方的な石油禁輸はイラン国民や経済に悪影響を与える。こうした動きで国際社会によるイランの核問題解決への努力は水泡に帰する」と述べたそうだ。
同時にイランが地下施設でウラン濃縮を始めたことに対しては「懸念を抱かせる」と不快感を示した。

結局、核兵器が開発される危険と、戦争が起こる危険性を秤にかけて、戦争の危険性のほうを重く見た判断であろう。もちろんそれで核開発を容認するわけではないが、ぎりぎりのところでは、核開発を容認しかねない議論である。

中南米など非同盟諸国のあいだにも、こうした意見は根強い。ことの良し悪しは別として、それは民族の主権にかかわる選択だということになる。

たとえば基本的人権の問題や言論の自由などという課題は、民族・国家の垣根を乗り越えるものではない。これを曖昧にすれば、ユーゴ内乱の二の舞だ。リビアでは明らかにこの基準を超えてしまった。

しかし、こと核の問題については話は別ではないか。もちろん核拡散防止条約は根本的な矛盾を抱えた条約ではあるが、それでもこれ以上核保有国をふやしてはならないという世界の人々の強い決意に支えられて、一つの有効なアイテムとなっている。

核は政治の中で相対化されてはならない。武力をもってこれを粉砕するというのは論外であるにしても、核開発を試みる国と政府に対して国際的なボイコットを訴えることは理にかなっていると思うが。