人間こそが人類にとっての固定資本

の記事で、

経済の真の目的は節約(世間で言う“経済する”こと)にある。

と書いていて気になった。

()内は私が書き加えたものだが、“世間で言う”というより、これがそもそも経済の本来の意味なのではないかと思ったのである。

経済という日本語は、たしかエコノミーの訳語を作るにあたって、中江兆民が漢書から「経世済民」という言葉を拾ってきてこれにあてたという話を聞いたことがあるが、エコノミーについては語源を聞いたことがない。確かに飛行機に乗るとエコノミー・クラスといって安い席を指している。ビデオにもエコノミー・モードといって、画質は悪いが長どりできるポジションがあった。

窪田恭史さんのブログで詳しく説明されていた。

 "Economy"(経済)という言葉の語源を辿ると、"Eco-"はギリシャ語で「家・家庭・家計」などをあらわす"oikos(オイコス)"に由来 する接頭語で、"-nomy"はギリシャ語で「法・秩序」をあらわす"nomos(ノモス)"に由来し、秩序や法則性、あるいは学問をあらわす語につく接尾語になります。つまり"Economy"というのは「家計の学問」という意味であり、いわゆる「家計のやりくり」から発展して今日の「経済」という意味 になったものと思われます。

ということで、「入るを測り出づるを制す」という感じ、言語に近い訳語をつけるなら「節約学」ということになるが、これではあんまり平ったすぎる、「理財学」に近いかもしれない。そうすると、「経済学批判」という題名にすでにある種の敵意がふくまれていることが感じ取れる。

節約、倹約と言いながら労働者をボロ雑巾のように使い捨てしているのは一体何なんだ。節約するんなら、労働者の能力こそ節約しなければならないんじゃないか、という論だてだ。

こういう、一種の言葉遊びみたいなものから、議論に入っていっているから、読者にも入りやすい。ところがそういう言葉のニュアンスに関する共通土台がないから、いきなり「経済の真の目的は節約にある」と言われると面食らってしまうのである。