人間こそが固定資本

経済学批判要綱② 499ページ

このフレーズは読み解くのになかなか骨が折れる。マルクス自身が考えが固まっていないと見えて、いくつも書き込んだり抹消した跡がある。

一番肝心なことは直接的生産過程を鏡に映してみると、固定資本と流動資本の関係が逆転するということである。

しかしマルクスはそれに気づいたが、十分に消化・展開しきれないままに終わっている。論理が跳んでしまうので、それについていけなくなる感じ、精神医学で言う「観念奔逸」である。疲れていたんでしょう。


経済の真の目的は節約(世間で言う“経済する”こと)にある。これを人類史的な立場から考えると、労働に縛り付けられる時間を節約することが真の目的ということになる。

(他の動物を見ると、毎日の生活のほとんどは生命を維持することと種を維持することに費やされている。これから離脱し“自由な時間”を創造するのが人類の目的である 私注)

この労働の節約は歴史的に見ると生産力の発展と並行している。もし生産力の発展がなければ、労働を節約することは“享受”を断念する結果になる。文字通りの「働かざるもの食うべからず」の世界である。

(享受という概念はなかなかむずかしいが、とりあえずここでは“消費”という言葉に置き換えてもよいでしょう 私注)

生産力というのは、人類の持つ生産のためのパワーであり、個々人の具体的な能力でもある。

生産力の増大は消費力の増大でもある。人類の生産物を享受し消費する能力も高まるし、個々人の享受の仕方や手段・スキルも多様化する。

(マルクスはここで“欲望の生産”という概念を加えることを忘れている。これが媒辞に入らないと円環が閉じない 私注)

これを前提とするなら、労働を節約すれば、それは消費の能力を発展させる結果になる。そして消費能力の増大は(欲望の増大と多様化をもたらし、)生産力の発展を促すことになる。

(内需拡大論と似ていますね 私注)

個々の人間の生産能力は、その人の持つ資質によって決まる。人の資質というのは、享受の積み重ねを基礎とする能力の発展により決まってくる。

労働時間の節約は自由な時間の増大に等しい。自由時間の増大は個人の全面的な発展のための時間の増大を意味する。

かくして個々人が発展することは、それ自身が人類の生産力の増大を意味する。

(いまの言葉で言えば労働力の生産性、マンパワーの向上)

直接的生産過程の視点から見るならば、労働時間の節約は固定資本の生産とみなすことができる。そして人間それ自身がこの固定資本なのである。

ここはかなり解説が必要だろう。

直接的生産過程というのは人が物を作るという単純な過程のことで、人がいて原料があって、それをいろいろな手立てを講じて完成品にする過程のことである。

これは当たり前のものづくりの過程だ。

しかし資本主義的生産過程では話が違う。経営者が工場を建てて、機械を入れて、原料を買って、労働者を雇って物を作る。この過程は直接的生産過程と比べると、主客が転倒している。

主人は経営者だが、その顔は機械や建物といった「固定資本」に化態している。固定資本が主役で労働者は外からやってくる「流動資本」だ。

もしこの経営者が、たとえば木工職人や大工の仕事場を眺めてみると、人間が主人公であり固定資本であるかのように見えるだろう。

彼にとっては転倒して見える人間と道具との関係は、実はそれこそがまともな関係なので、経営者のほうが転倒しているのである。

ということを前提として、マルクスは人間自身が固定資本なのだといっているのである。

直接的労働時間と自由な時間は対立しているように見える。少なくともブルジョア経済の視点からはそう見える。両者の対立は(24時間マイナス何時間というような)抽象的かつ抜き差しならないもののようだ。

しかし(労働時間の節約が、生産性の向上と結びつきながら進行し、そのことによって、一方では需要が増大し、他方では労働の生産性が上がっていくということを前提とするならば、)これが絶対的な対立ではないことは明らかだ。

かつてフーリエという空想的社会主義者がいて、労働と自由時間の対立は、時間の分配をめぐる対立」ではないといった。これはただしい。だが、「労働は遊びとなり、遊びと一体化する」といったのは間違いである。労働は労働としてこれからも残るし、自由時間との対立も残る。

しかしフーリエはそれを、より高度の形態にすることが出来るだろうと示唆した。(主客の転倒した資本主義的な)生産様式をより高度なものに“止揚する”ことによって、それが可能になると主張した。これは彼の偉大な業績である。

自由な時間は、(グダっとした)余暇時間でもあれば、(仕事より辛いくらいの)高度な活動のための時間でもある。

(資本主義より高度の生産システムの下では)個々人の自由な時間は、個々人をこれまでとは違った人間に転化させていく。個々人は直接的生産過程に新たな主体として戻る。

そして直接的生産過程の中で、学び、育ち、鍛えられる。

ものづくり過程は科学でもある。それ自体が実験でもあり、物質を創造するだけなく、その物のうちに自己を表現する手段でもある。

(このあたりは、頭は回らずペンだけが動いている感じだ)


ようするに、ものづくりの過程というのは昔から変わらなくて人間が道具を使って素材を有用物に変化させることに本質があるのだが、資本主義的生産システムというのは、あたかも道具(資本)が人間を使って物を使うような関係になっていて、逆転している。

だから自由時間の積極的意義など認めないし、もっと働けと強制するし、働かないと食えないような賃金しか与えないのである。

しかしこの関係を逆転させて、人間のほうを固定資本だと考えてみると、固定資本の強化に最大の努力を傾注すべきということになる。

国際競争力の強化のためには、相対的剰余価値の増大が必要であるが、それは人間中心主義の立場からは、労働者の自由時間拡大こそが最も重要だということになる。(やや、強引な論理展開の感、無きにしも非ずだが)