とり貯めていた音楽ファイルを整理していたら、なんとなく気になってRCA交響楽団て、どんな楽団なのだろうと思って、グーグル検索してみたら、なんと解説がない!

しかたがないので、英語版を翻訳して載せておく。

All Music Guide Website (Author: Roger Dettmer) というページの記載だ。

このオーケストラはロビンフッド・デルとかハリウッド・ボウルのような偽名楽団ではなくて、ちゃんと存在したのだということがわかった。そしてコロンビア交響楽団がワルターの楽団であったように、フリッツ・ライナーの楽団だったのだ。


RCA Victor Symphony Orchestra
RCA Symphony Orchestra (Symphony Orchestra)

Founded: 1940 - USA

このオーケストラの母体は Nat Shilkret によって作られたサロン・アンサンブルである。彼は1916年から35年まで Victor Talking Machine Company の音楽監督だった。

本拠地はニュージャージー州カムデン、フィラデルフィアから川を渡ったところだ。1940年ころまでは、ビクターはストコフスキーの楽団の団員を随時使うことができた。

その後ビクターがRCAに併合されると、このアンサンブルは RCA Victor Orchestra と呼ばれることになった。注意: もう一つ Victor Orchestra というのがニューヨークにあって、こちらも随時契約の楽団で、こちらは軽音楽系が専門で、黒盤と青盤に吹き込んでいた。

1940年代はじめ、RCAとの合併と大恐慌のあと、ユニオンのボス James Petrillo は州法を盾にこの楽団の録音活動を禁じた。さらに1943年にはフィラデルフィア管弦楽団がRCAを離れ、CBS系列のコロンビア・レコードに移籍した。

これらの経過が RCA Victor Orchestra の活躍の舞台を変えることになった。

海外と米国レーベルとの関係は、第二次世界大戦後かなり複雑になった。メトロポリタン歌劇場のレコード権をコロンビアが獲得したことも事態を悪化させた。というのも歌劇場の歌手の多くはRCAと契約していたからである。

"RCA Victor Symphony"(以下 RCA SO) は突如としてメジャーの演奏団体になった。理由は主要にはマンハッタンの事情によるものであるが、それだけではない。ニューヨークが膨大な数の演奏家を蓄積していたからである。

しかし、RCA SO は歌劇のプロジェクトのみに限られたものではなかった。Leonard Bernstein はビクター所属時代(1944-1950)に、RCA SO と最初の録音を行なっている。

Igor Stravinsky はハリウッドに本拠を置いていたが、ニューヨークとメキシコ・シティーでRCA SO を指揮して録音を行なっている。

Jascha Heifetz は、数曲の協奏曲を録音している。指揮者は William Steinberg と Izler Solomon であった。

Robert Shaw のRCA への吹きこみは、すべてニューヨークのスタジオでRCA SO と行ったものだった。

RCA の歌劇全曲盤の首席指揮者は、対コロンビア戦争の間は Renato Cellini がつとめた。そして1950年に Fritz Reiner に引き継がれた。ライナーはコロンビアを離れRCAに移ってきたのだ。

ビクターのニューヨークにおける演奏家はニューヨーク・フィル、メトロポリタン歌劇場管弦楽団、シティー・センター、NBC交響楽団、放送局のスタッフ・ミュージシャンなどから構成されていた。

ライナーは、RCA SO の看板となるにあたり、常時演奏の質が保証されるようにもとめた。そしてスカウトを送り出して必要な要員を集めた。

ライナーにとっては、バッハのブランデンブルグ協奏曲であろうと、シュトラウスの交響詩であろうと、協奏曲の伴奏であろうと、歌劇の抜粋版であろうと、一定の水準が保証されなければならなかった。

(実際に何人かのメトロポリタン歌劇場の歌手を起用して当時流行の抜粋盤が製作されている。「こうもり」と「ばらの騎士」がそれである。カルメンは全曲録音が行われている)

フリッツ・ライナーは首席ではあったが、他の指揮者もRCA SO と録音を残している。名前を上げると、Leopold Stokowski、Krips, Kondrashin, Alfred Wallenstein らである。

ロスアンジェルスはレコーディング・オーケストラの第二のセンターであった。そこにはコロンビアと MGM という2つの楽団があり、RCAにも楽団があった。そこには一級のスタジオ・ミュージシャンがプールされており、一流楽団であるロスアンジェルス・フィルがあった。

(彼らの多くは Bruno Walter の最後の録音のほとんどに関わった。そしてトロントやニューヨークでは録音をしない主義のストラビンスキーにも付き合った)

ステレオ録音の出現、そして年間契約制度の導入までは、アメリカの主要交響楽団は(夏場はシーズンオフとなり、一種のアルバイトとして)サマー・コンサートを行うのが恒例となっていた。

だからエベレスト・レコードはニューヨーク・フィルをスタジウム交響楽団の名前で、RCAはフィラデルフィア管弦楽団を Robin Hood Dell SO の名前で、そしてロスアンジェルス・フィルをハリウッド・ボウル交響楽団の名前で制作・発売できたのである。しかしそれらはいわば偽名であり、商業ベースの名称ではない。

しかし、映画会社が経済的理由から海外を目指すようになった1960年代、RCA もそれに倣うこととなった。RCA SO は RCA イタリアーナ管弦楽団に置き換えられた。ローマ歌劇場の演奏者がオフ・シーズンに召集され、ベルディーやプッチーニの歌劇を録音した。

1963年、当時シカゴに移っていたフリッツ・ライナーは、ニューヨークで"his orchestra"とハイドンの交響曲を録音した。

アメリカのレコード会社は会社の名を冠した楽団を保持したが、ヨーロッパから洪水のようにおしよせるレコード録音には勝てなかった。1990年代に入ると、クラシック音楽の販売は枯渇した

ドイツのメディア企業 Bertelsmann 社がRCAのRed Seal Records を買ったが、2001年にはその「前世紀の遺物」を放棄した。

現在、シュワンのカタログには RCA Victor SO の名は存在しない。