流れを見てみると、この事件には二つのターニング・ポイントがあるようだ。

一つは、成立したナジ政権と労働者評議会の関係である。23日に動乱が発生してその2日後には全国に評議会が結成され、執権機構が事実上そちらに移動しつつあった。その鍵となる力は労働者評議会にあった。つまり二重権力状態である。

ここと政府との間がうまくいかなかった。ナジが党の既存権力の抵抗を押し切って改革を実行しようとすれば、その背後の力は評議会以外にはありえない。しかし直接、労働者評議会と連携しようとする立場はうかがわれない。

労働者評議会の評価は不明である。おそらく雑多な勢力も紛れ込んでいたことは間違いない。しかし2,3日のうちに全国に執行能力を持つ評議会が組織されたということは、党のアクティブな部分が相当動いたと想定しなければ不可能だ。動乱終結後に労働党員が70万から10万に激減したという数字は、そのことを示唆している。

ナジは53年にも一度首相の座についたが、2年足らずでその座を追われている。そのときの経験が生かされているとは思えない。二度にわたる失敗は彼の指導者としての資質を疑わせるものだ。

もう一つのターニング・ポイントはソ連共産党内部の変化だ。とくにフルシチョフの豹変だ。ソ連の崩壊後内部文書が開示されたことで、いままでの憶測のほとんどは否定された。

基本的には、ソ連の周囲は「攻めろ、攻めろ」の大合唱だった。ミコヤン、スースロフ、ジューコフを中核とする「新路線」派は孤立していた。マレンコフがキャスティング・ヴォートを握っていた。フルシチョフの180度の転換は、10月30日の昼から夜にかけて行われた。最終決断にあたり相談したのはマレンコフ(物分りの良いスターリニスト)だろう。

この間に起きたことは、一つはユーゴのチトーによるナジ政権批判であり、イスラエルと英仏軍によるエジプトへの軍事侵攻である。衝撃度としてはスエズのほうがはるかに大きいが、深刻なのはチトー声明のほうである。

チトー声明の本質は複数政党制批判にある。複数政党制そのものというより、ナジの提唱した政治システムが、社会主義政権を崩壊させ、第二次大戦前のハンガリーに引き戻す危険を訴えたものだ。ミコヤン、スースロフはこの複数政党制提案をふくんでナジ政権支持を打ち出していた。そこには明らかな情報ギャップがある。

フルシチョフはミコヤン、スースロフのハンガリー評価を否定し、チトーの評価を採ったことになる。

そもそも6月にラコシ第一書記を追い出し一定の改革に乗り出したのはミコヤンであった。しかしラコシに代わって第一書記に衝いたのはラコシの腹心のゲレであり、改革などする気はまったくなかった。かつてベリヤが言ったようにハンガリーを支配していたのは数名のユダヤ人党員であり、彼らがマフィアを形成していた。だからハンガリーを「新路線」に載せるためには、彼らをすべて一掃しなければならなかった。(ベリヤは極悪非道の男だが、どういうわけか政策的にはリベラルで、ポグロムのあいだもユダヤ人を庇った)

それが10月23日の事態につながったのだから、ミコヤンの情報収集能力に疑問符がつけられても不思議はない。

このあとフルシチョフはポーランド、ルーマニア、ブルガリアと飛んで、最後にはチトーとさしで徹夜の会談を行った。これらすべての会談にマレンコフが同行した。侵攻作戦はマレンコフが総指揮をとることになった。

作戦を急いだのは29日に始まったスエズ武力侵入の影響があるが、CIAの「自由ヨーロッパ放送」によるソ連との武力対決を煽る大宣伝も影響していたようだ。拠るべき根拠を失って漂流していたハンガリーの民衆にこの放送はかなりの効果を及ぼした可能性がある。

アイクはハンガリー介入の可能性を否定していたから、この武力対決は無責任な扇動だった。

(これでとりあえずハンガリー事件は終わり)