11月1日

11.01 カダル第一書記、ハンガリー社会主義労働者党結成のための準備委員会メンバーを発表。

11.01 カダール、アンドロポフと会見。そのままモスクワに飛ぶ。

11.01 ナジ首相、ソ連大使アンドロポフと会見。ソ連軍の即時撤退に関する交渉を開始したいとのハンガリー政府の意向を伝える。またソ連軍の不穏な動きについて説明を求める。アンドロポフは侵攻を否定した。

11.01 午後4時 閣議が開催される。ソ連介入の国際法上の根拠を封じるため、ワルシャワ条約からの脱退と、ハンガリーの中立国化を決定。ハマーショルド国連事務総長に通告した。この決定はカダル第一書記の了承を得ていたとされる。(時間経過から見て、これはソ連軍介入の根拠にはなっていない)

11.01 フルシチョフ、中国に戻る劉少奇代表団を空港まで送り、車中でソ連の決断を説明する。

11.01 フルシチョフ、マレンコフ、モロトフらからなるソ連共産党代表団、ポーランドとの国境の町ブレストに飛び、ゴムウカと会談。軍事制圧作戦の了解を求める。

11.01 フルシチョフとマレンコフは、ルーマニアの首都ブカレストに飛ぶ。ルーマニア首脳とブカレストに滞在していたチェコのノヴォトニ第一書記から了解を取り付ける。これらの国は、民主化の自国への波及とハンガリーのファシストの復活を恐れていた。

11.01 CIAの運営する自由ヨーロッパ放送、さらなる暴動を扇動し、西側の支援が間近に迫っていると励まし、ソ連軍との戦い方についての戦術指導を与える。(アイゼンハワーはすでに不介入を決めていたので、これは無責任な煽り行為)

 

11月2日

11.02 ナジ政権の改造新内閣が発足。共産主義者は閣内少数派に転落する。

11.02 ソ連軍の撤退とリンチの応酬の終息により、ブダペスト市内の平穏化は進み、店舗営業も再開されはじめる。

11.02 フルシチョフ、ブルガリアに飛ぶ。ブルガリアと指導部と会談。

11.02 クレムリンでソ連共産党政治局会議が開かれる。

チトーとの会談のため不在のフルシチョフに代わり、ブルガーニンが議長を務める。
ハンガリー後継者をめぐり議論となる。ハンガリーの事情に詳しいミコヤンとスースロフがカダールを推したのに対し、反フルシチョフ派のカガノヴィッチ、モロトフ、ノヴォシロフは、ミュニッヒを擁立すべきと主張する。

11.02 午後7時、フルシチョフ、ユーゴのブリオニ島に到着。ブリオニ島はアドリア海に浮かぶ小島で、チトーの静養地。

11.02 フルシチョフ、マレンコフとチトーがハンガリー情勢について協議。会談は3日早朝まで及ぶ。

ソ連側はナジに代えてミュニッヒを首班とする臨時政府構想を提示した。ティトーは「現在ハンガリーで誠実なものを代表しているのはカダルである」と述べ、カーダールを首班とする労農臨時政府の樹立を主張した。

 

11月3日

11.03 ソ連共産党政治局会議が再開される。午後にモスクワに戻ったフルシチョフはすぐに会議に加わり、チトーとの会談内容を報告。これによりカダル擁立が決まる。介入作戦の本部長にはマレンコフが指名される。

11.03 ナジ政府、ソ連軍撤退問題についてソ連側と交渉開始。パル・マレーテル国防相がブダペスト近郊テケルのソ連軍司令部に赴く。

11.03 午後9時30分 ソ連軍のブダペスト包囲が完了。ハンガリー東部はソ連軍の制圧下に入る。

11.03 午後12時 ソ連軍、パル・マレーテル国防相ら代表団を拘束。

 

11月4日 第二次介入

午前3時 戦車および機械化師団などソ連軍21個師団が市内に突入。戦車2500両、装甲車1000両、歩兵15万人の大部隊。(最近の開示文書によれば、実際は31,550人、戦車は1,130台だった)

午前4時 ラジオで、「革命労農政府が樹立され、反撃を開始した」との声明が流される。

午前4時25分 ソ連軍、ドナウ川を渡りブダ中心部に入り戦闘を開始。ゲリラを対象とする市街戦を想定した虱潰しの無差別破壊作戦をとる。ハンガリー軍部隊は抗戦体制に入る。

午前5時20分 ナジが最後の演説。放送時間は35秒。「我が軍は戦っている。政府は存在している」と述べる。

午前6時 カダール、モスクワから首都東南100キロのソルノーク空港に到着。革命労農政府樹立を発表。「反革命分子の暴行をやめさせなければならない」とうったえ、新政府への協力を呼びかける。その後ソ連の戦車に乗って、ブダペストに入る。

午前8時 市民の防衛組織は街頭から消失。一斉に地下に潜る。

11.04 ナジ・イムレはユーゴ大使館に避難。ミンズセンティ枢機卿はアメリカ大使館に避難。

11.04 ブダペスト郊外のレアーニィファルにある社会主義労働者党の幹部用保養施設に、ソ連共産党の最高司令部が設置された。マレンコフ政治局員が最高司令官となり、中央委員会書記のスースロフとアリストフが側近として配置された。ソ連共産党の意向はこの本部からカダールに伝えられた。

(ほとんどの文献で、このあとの数日は空白になっている)

11.07 市内の抵抗は“Pockets of resistance”を残すのみとなる。

11.08 カダルが革命労農政府首相兼社会主義労働者党第一書記となる。

11.10 市の南部労働者地区で抵抗を続けた労働者評議会や学生・知識人たちが、占領軍と直接交渉により休戦に応じる。

11.10 ソ連共産党政治局、ナジ・グループの存続をいかなる形でも許さない方針を決める。

カーダールは①ナジ・イムレが首相辞任と政府消滅を認めれば国外亡命を容認する、②グループから新政府の協力者を受け入れる、という線で考えていたとされる。ユーゴスラヴィア政府もカダール路線での解決を望んでいた。

11.11 チトーの演説。「スターリン主義者の支配に対する正当な反逆が、ナジ政権の無能と不決断、反動勢力による主導権掌握により反社会主義的・反ソ的な運動に転化したため、再度の介入が不可避になった」と述べ、ソ連の軍事介入を支持する。

11.16 ソ連共産党、ナジ・グループをユーゴに亡命させずに粛清する方針をカーダールに伝える。

11.16 ハンガリー学生同盟内に勤労青年同盟系の活動家がなだれ込み、主導権を掌握する。

11.22 ユーゴ大使館に逃げ込んだナジ・イムレは、ソ連の策略によって大使館を出たところをら致される。他のナジ・グループ員も軍事学校内のKGB本部へ連行され、そこからルーマニアへ移送された。

 

56年12月

12.02 社会主義労働者党、ラーコシとゲレーの「教条主義」とともに、ナジの「修正主義」を非難。カダールは事前にレアーニィファルの占領本部で報告内容の概要を提示し、マレンコフの了承を取り付けたとされる。

カダール報告: 「動乱」を三期に分ける。
第一期(10月23日から30日まで)は「反革命分子が現状の不満を訴える労働者大衆の正当な要求を、自らの目的のために利用しようとした時期」 
第二期(10月31日から11月4日まで)は反革命が勢いづいた時期で、共産党組織、国家保安局、警察が襲撃され、多数が殺害された。
第三期(11月4日以後)は、反革命を鎮圧する時期。

12.02 暫定中央委員会総会の決議。「事件の中で立ち上がった大衆の圧倒的多数は、その目的、意図、感情の点で反革命ではなかった。しかし武装蜂起の基本性格は反革命であった」と事件の性格を規定する。党員数は80万人から10万人に激減。

12月 マレンコフの占領本部が撤収。アンドロポフ大使を頂点とする現地スタッフに委ねられる。

 

1957年

57年1月

1.17 Nepszabadsag 紙、中央統計局の犠牲者推計を掲載。

犠牲者推計: ブダペスト市街の戦闘で死亡した市民は1969名、各種医療施設に運ばれた負傷者は17000名に上る。また、地方の犠牲者は300名に及ぶ。さらに、ハンガリーの軍・警察の犠牲者は423名に上り、このうち内務省管轄組織の犠牲者が155名で、そのほとんどが保安局に属する者である。
ソ連軍の被害も大きく、669名の死亡、51名の行方不明、1986名の負傷者で、ソ連軍の死亡者のほとんどはブダペスト第8区および第9区における市街戦での犠牲者である

1月 カダールが新政府を組織

1月 フルシチョフはハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、チェコスロバキアとの5ヵ国共産党会議を開催。周恩来とのモスクワ会談にカーダールを呼んで三者会談。

1月 中国共産党代表団がハンガリーを訪問し、「反革命」にたいする国際的連帯を謳う。

 

3月 カダール、モスクワを訪問しソ連共産党・政府との協議をおこなう。ソ連はカダールに信任を与え、ラーコシ一派のハンガリー帰還を認めないと決定。

57年半ば 武力抵抗は終わる。ウィキペディアによれば、ハンガリー側では死者が17000人に上り、ソビエト側も1900人の犠牲者を出した。国連の「ハンガリー問題報告」では戦闘による死者3千人とされる。

57年半ば 動乱勃発時からオーストリア国境が開放され、20万人が国外亡命した。

6.17 マレンコフ、ブルガーニンらがモロトフら旧スターリン派と結託、ソ連共産党政治局会議でフルシチョフ解任決議を提案する。政治局員の多数がこれに賛成する中、ミコヤン、スースロフ、キリチェンコが反対し、議決権をもたないブレジネフとジュコフも反対に回った。

7.04 ソ連共産党中央委員会、マレンコフ、モロトフ、カガノヴィッチを除名し、ヴォロシロフとブルガーニンを政治局員から格下げする。

8.21 社会主義労働者党政治局、ナジ・グループに対する処罰を決定。「ナジ、ロションツィ、ドナート、ギメシュ、マリーテル、スィラージ、キライには最も重い刑を科し、その他の者については罪状と改悛に応じて罰する」決議を採択。

12.21 社会主義労働者党の中央委員会が開かれる。内務省に登録されている反革命分子リストには120万人が記載されていることが報告された。カーダールは20万人まで削減するよう指示する。

 

1958年

2.05 ナジ・グループ裁判が開始される。翌日、訴追準備の不足という理由で裁判が中止される。

2.26 学生同盟、農村青年組織などが勤労青年同盟を改組した共産青年同盟に一本化される。

5月末 カダール、政治局会議で裁判再開を決定した。

6.15 最高裁判決、ナジのほかマレーテル国務相、ミクローシュ・ギメシ(ジャーナリスト)に死刑宣告がくだる。シャーンドル・コパーチ警察長官らに12~15年の刑が宣告される。ティルディは懲役6年の判決。

6.16 ナジが絞首刑に処せられる。

6.17 ナジ・イムレの処刑発表される。

11.16 動乱後初の総選挙

 

1959年

59年末 ここまでに200余名の動乱参加者が死刑判決を受け、即刻処刑された。他にも動乱参加者の逮捕・起訴が相次いだ。

1962年

8.19 ラーコシとゲレーを党から除名。

11.20 社会主義労働者党第八回大会開催。社会主義の基礎建設完了を宣言。

1963年

4.22 宥和特赦令が発布される。56年動乱参加者4千名に対する大赦。

 

82年6月 「56年6月協議会」の25周年記念シンポでベレツ・ヤーノシュ党書記がハンガリー事件に関する報告。多くの新事実が明らかにされる。

1989年2月 ハンガリー社会主義労働者党が総括文書「四十年間に関する報告」を発表。動乱の評価を修正。「ナジはハンガリー史において重要な人物であり、国家救済のために闘い、スターリン主義を抑え、不正を許さず反革命と闘った。彼は道筋は誤ったが、民主的複数政党制を認める社会主義の道と一体化した」とする。

1989年3月 ナジの遺体発掘と再埋葬。