1956年

56年2月

2.14 ソ連共産党第20回大会。秘密会議でフルシチョフがスターリン批判演説。

2月 ラーコシ第一書記、ハンガリー勤労者党代表として大会参加。

56年3月

3.17 勤労党内のペテーフィ・サークルが最初の集会開催。当初は文学・芸術クラブだったが、スターリン批判後、ナジの復職などを要求する拠点的役割を担う。ペティーフィは1848年革命の英雄。

3.27 ラーコシ書記長、ラィク・ラースロー元外相の裁判は「挑発」であったと認める。

56年4月

4.17 コミンフォルム解散

56年5月

5.18 ハンガリー勤労者党ブダペスト市委員会活動者会議でラーコシが演説。そのなかで個人崇拝に彼自身も責任の一端があることを初めて認める。

56年6月

6.07 ソ連共産党幹部会員ミハイル・スースロフがハンガリー訪問。

6.26 トリアッティがイタリア共産党中央委員会総会でスターリン批判に関する報告。スターリンによる党と国家の「官僚主義化」が、1928年の第1次5ヶ年計画期に発生したと指摘。「プロレタリア独裁の再検討」を求める。

6.28 ポーランドのポズナニ市ジスポ工場で発生したノルマ増加反対のストが、市民全体をまきこむ抗議運動に発展。治安当局との市街戦が始まる。数十人の死者を出すが、ポーランド統一労働者党の改革派が結集し、事態を終息させる。

6.30 党機関紙に公然たる指導部批判が掲載される。作家協会と学生組織はラコシの解任と逮捕をもとめる。中央委員会はペトフィ・サークルを解散させ、知識人を党から追放。

6月 ソ連とユーゴが関係修復に動く。チトーがモスクワを訪問。

56年7月

7.17 ポズナニ事件に危機感を抱いたソ連指導部は、アナスタス・ミコヤン幹部会員をブダペストに派遣、ラーコシの解任に動く。

7.18 勤労者党中央委員会総会、ラーコシを第一書記から解任する。しかし後任にはラーコシの腹心で第二書記のゲレー・エルネー(Gerő)が昇格。

(ウィキペディアによれば、ミコヤンはラーコシに対し、「病気の治療のため」という名目で、ソ連への出国を命じた。彼は余生をキルギス共和国で過ごした)

56年10月

10.04 ナジ・イムレ、勤労者党中央委員会に手紙を書き、復党を要請する。

10.06 ライク・ラースローおよびその他の共産党指導者の葬儀。30万人の市民が参列する。

10.13 ナジ・イムレが復党をはたす。

10.15 ゲレー第一書記を団長とするハンガリー勤労者党代表団がユーゴスラビア訪問。チトーと会談をおこなう。

10.16 セゲド市(ハンガリー第二の都市)で大学生同盟(MEFESZ)を再建。反共右翼学生の拠点となる。

10.19 ポーランドで権力の交代。長らく獄中にあった改革派のゴムルカを党第一書記に任命する。

10.21 ポーランド統一労働者党中央委員会総会、ゴムウカを第一書記に選出する。ポズナニ暴動は反革命的暴動ではなく、勤労者の正当な不満の表明と宣言

10.22 ブダペストの工科大学で学生集会が開かれる。ソ連軍の撤退、ナジ・イムレの首相への任命、複数政党参加の総選挙、言論と出版の自由、政治囚の釈放など16項目の要求を採択。

10.22 プダペスト工科大学と建築大学の無党派学生が、23日にポーランドとの連帯デモを行うと発表。

10月23日

10.23 午後 約2万の群衆がベム広場に集まる。作家組合の議長ペーテル・ヴェレスが、ポーランドとの連帯を訴える「宣言」を読み上げる。次いでハンガリー国旗から共産党をかたどった真ん中の紋章部分が切り取られる。

(一説では参加者約20万人とされるが、ここでは英語版ウィキペディアにしたがう)

(ベレツ・ヤーノシュによれば、集会では国旗から紋章が切り取られ、赤旗を掲げることが禁止される)

10.23 午後 群衆はデモ行進を開始。ドナウ川を渡り国会議事堂を包囲する集会に合流する。

(日本語ウィキペディアでは、“ゲレーの退陣を求めて学生たちがブダペストをデモ行進し、多数の労働者もそれに加わった”とある)

10.23 午後6時 国会議事堂を取り囲む群衆は2万人以上に膨れ上がる。スローガンは自由選挙、民族独立、そしてナジ復帰であった。

午後8時 ゲレのラジオ演説。民衆の政治要求を全面的に拒否し、デモ隊を「挑発者」と罵倒する。

午後9時30分 群衆の一部はブダペスト放送局に集結。市民の要求を放送するよう求める。放送局を守るAVH兵士は群衆に無差別発砲。死傷者が多数出る。

AVH兵支援に送られた兵士は群衆につく。軍の兵器庫から銃が奪われ民衆に手渡される。事態はハンガリー軍の一部を巻き込む市街戦に進展する。

午後9時30分 群衆の一部はスターリンの銅像(9メートル)を取り壊し始める。

10.23夜 (フォーミンによると、ヘゲドゥシュ首相がアンドロポフ大使にソ連軍出動を要請。1時間半後にソ連国防相から駐留軍のレシェンコ司令官に出動命令がくだされる)

10.23深夜 ゲレは勤労者党中央委員会総会を緊急招集する。ナジ・イムレを首相職に復職させるいっぽう、ソ連軍介入を要請する決定。「アメとムチ」で事態収拾をねらう。ヘゲドゥシュ首相は副首相に横滑りする。

10.23深夜 ナジ、ソ連の軍事介入を要請する文書への署名を拒否。これに代わりヘゲドゥシュ副首相が署名する。

10月24日

午前2時 ソ連軍の第一次介入が始まる。ソ連軍戦車がブダペスト市内に侵入する。歩兵なし戦車隊のみの行動で、本来は威嚇目的の作戦と思われる。

正午 ソ連軍戦車が議事堂周囲に配備される。武装した民衆は放送局を占拠。街頭にバリケードを構築して対抗。ソ連軍戦車数台を鹵獲する。一説によれば、一定数のソ連軍戦車がハンガリー民衆側に寝返り、ハンガリー治安当局との戦闘に加わったといわれる。

10.24午後 市内各所でソ連軍戦車隊との戦闘が始まる。ハンガリー軍は中立を宣言、一部は民衆側に合流した。ソ連軍は、市内の建物を無差別砲撃する戦術をとり、民衆側はゲリラ戦術で応戦。

10.24 アンドロポフの要請を受けたイムレ・ナジが群衆に向けた演説。政治改革の開始を宣言し、暴力の終了を呼びかける。

10.24 群衆が刑務所を襲い、Mindszenty 枢機卿らを解放。秘密警察要員にリンチを加える。

10.24 学生は多くの政府関係施設や区域を占拠し、自分たちで決めた政策や方針を実施しはじめた。多くの工場に「労働者評議会」が結成されてゼネスト状態に入った。

10.24 ユーゴスラビア、ソ連の軍事介入を厳しく批判する声明を発表。

10.24 ソ連共産党政治局、ポーランドとハンガリーの政治状況について議論。モロトフは軍事介入を主張。フルシチョフとジューコフ元帥は自体を思想闘争と見るべきではないとして、干渉に反対。政治局はミコヤンとスースロフを再度ブダペストに派遣することで合意。

10.24 ブダペストのソビエト軍は戦闘を停止した。


10月25日

「人の数ほど多様な56年が存在する」と、56年動乱で死刑判決を受けたグンツ元大統領は語っている。10月25日はその典型である。

25日 国会前広場の集会に約700人が集まった。周囲のビル屋上のAVH兵士は群衆に向け発砲。広場は血の海と化し約100人が死亡、約300人が負傷した。ソ連軍は動かず、一部はAVHに銃口を向ける。

25日 ウィキペディアによれば、最も激しい戦闘はコルビン劇場のあるコルビン広場で起こった。(民衆は火炎瓶を用いてソビエト軍部隊に抵抗したとあるが、ソ連軍は戦闘を停止していたのではないか)

10.25 József Dudás の率いる民兵隊400人がソ連支持者やAVH要員への襲撃・殺害行動を開始する。その後の1週間で少なくとも労働者党員213人が殺される。

10.25 全国各地に革命評議会が設立される。27日までにすべての地方政府の権能を掌握。

10.25 労働者・下部党員は、各工場内に「労働者評議会」を結成。工場幹部を放逐して自主管理を宣言した。

10.25夜 全国レベルの労働者評議会と国民評議会が組織され、ゼネストを呼びかけた。(ウィキペディアによると、大衆はワルシャワ条約機構からの脱退をナジ政府に迫った)

10.25 ハンガリー勤労者党中央委貝会総会、ナジ・イムレを首相に選出。ナジは戒厳令を取り下げ、AVHの解体を指示。教会の名士たちを含む多くの政治囚たちを釈放する。

10.25 ナジがラジオ演説。「まもなく国民議会を招集する。この議会で私は包括的な、根拠のある改革プログラムを明らかにする」と述べる。(レオニードフ論文によると、ナジはこの時点で、「武力行動を革命と認めよ」との要請を拒否したとされる)


10月26日

10.26 ハンガリー勤労者党中央委員会総会、ゲレーを第一書記から解任。新第一書記にカダル・ヤーノシュを選出。Gerő とAndrás Hegedüs 前首相はソ連大使アンドロポフの指示を受け、ソ連に向け飛び立つ。

10.26 労働者評議会はゼネストに突入。労働者評議会の要求はソ連軍の撤退、党の経済問題への干渉排除、ワルシャワ条約の再交渉であった。

10.26 ナジ首相、ファシスト(矢十字党)を除外したすべての旧党派(小地主党・農民党など)員を入閣させ「民族戦線政府」を結成すると発表。同時にソ連軍の撤退を要請する。

 

10月27日

10.27 ナジが組閣を終え演説。「広範な民主的大衆運動」を訴える。政府閣僚には数名の非党員がふくまれる。またAVHの解体、単一政党制の破棄を提案する。

10.27夜 (ウィキペディアによると、ミコヤンとナジとの会談が行われ、その結果ソビエト軍の撤退が宣言された=ミコヤン報告)。

 

10月28日

10.28 ハンガリー勤労者党中央委員会が声明を発表。これまでの政治局と書記局を解散し、6名から成る幹部会に党指導を委任。

10.28 民族戦線政府が結成される。ハンガリーは事実上、複数政党制に復帰

10.28 ナジは全党派に停戦命令を発する。蜂起を民族民主運動と規定、評議会を合法的なものと認める。反徒への大赦、ハンガリー旧国章の復活、AVO解散、蜂起参加者をふくむ新たな軍と警察の設立を発表する。

10.28 一説によれば、“ポーランドの「ゴムルカ」的役割を期待していたソ連は、この複数政党化時に、ナジを見放しはじめた”とされる。勤労党が少数野党化することは目に見えていたからである。(今となっては憶測にすぎないことが明らかである。そもそもナジが複数政党制そのものについて言及したのは30日ではないか)


 10月29日

10.29 (ウィキペディアによると、この日警察、軍隊、市民による国民防衛隊が結成された)

10.29 ハンガリー全国の代表がナジに面会を求め、さらなる自由化を訴える。(これが労働評議会との正規の会見であれば、重要な情報だが…)

10.29 スエズ動乱がはじまる。イギリス・イスラエル・フランス軍がエジプト領内に武力侵攻。

10.29 (鹿島正裕『ハンガリー現代史』ではこの日、ソ連指導部、第二次介入とナジ政権の打倒を決定とあるが、誤りであることが実証されている)

 

10月30日

30日午前9時頃 ベム広場の学生が共産党系活動家に対し集団リンチを開始。

10.30 暴徒が党のブダペスト市委員会を襲撃。(ウィキペディアによると、建物から出る武器を持たない秘密警察隊員らが次々と民衆により射殺された。その後も命乞いをしながら出てくる秘密警察隊員や勤労者党書記らがリンチされた挙句、遺体が街路樹に晒し者にされる事態になった)

10.30 勤労者党幹部会は勤労者党の解散と社会主義労働党への再編、および複数政党の復活を全会一致で決定。地方評議会の活動を公式に承認。ナジ政府はこれを「自治的・民主的な地方組織」として政府への支援を求める。

ナジ・イムレの国民向け演説: ハンガリーの兄弟の皆さん、愛国者の皆さん、祖国に忠実な市民の皆さん。革命の成果を擁護しようではないか。全力を上げて秩序を守り、平静を取り戻そう。我が祖国でこれ以上の内乱が続かないようにしようではないか。 

10.30 政府は公式に一党制を否定する。民族戦線政府に参加した諸党派を公認。

10.30 ソ連共産党政治局、ハンガリー新政府を除去しないことを決定。ジューコフ元帥は、「我々はブダペストから引き揚げるべきだ。必要ならばハンガリー全土から」と述べる。

10.30 ソ連政府が声明を発表。

ソ連と他の社会主義国間の友好・協力を発展・強化するための宣言: 社会主義諸国間に存在していたかつての誤りや一面性を認めるとともに、ハンガリー大衆の運動の中には正当な要求があることを認める。
「ソ連政府はハンガリー人民共和国政府やその他のワルシャワ条約加盟国と、ハンガリー領内のソ連軍駐留問題について話し合う用意がある」とする一方、反革命勢力がこれらの要求に乗じて反革命を進めていると警告。反革命との断絶を呼びかける。(公式発表は31日か)

10.30 ソ連共産党のミコヤンとスースロフかブダペスト再訪。ソ連政府声明を伝達。ナジは中立政策は長期の目標であること、この問題に関してはクレムリン指導者との議論を行いたいと述べる。(ただし学生や一部評議会指導者はワルシャワ条約からの即時離脱を主張していた)

10.30 ミコヤンはナジとの会談を経て、ハンガリー軍に統制を任せるべきとモスクワに報告。これを受けて、ソビエト軍撤退が開始された

10.30 ソ連軍のブダペスト撤退がはじまる。市内を撤収したソ連軍は、郊外の空港・ハンガリー軍基地を包囲する体制に入る。

10.30 ユーゴのチトー、ナジ政権が複数政党制を容認し、コシュート紋章(ハンガリー王国の紋章)の使用を許可したことを厳しく非難。複数政党制はユーゴスラビア体制の否定をも意味し、コシュート紋章は大ハンガリーの野望とも結びついているためとされる。

10.30 劉少奇を団長とする中国代表団がモスクワを訪問。ハンガリー問題について意見を交わす。劉少奇は「反革命が事態を支配している」とし、より断固とした行動をとることを求める。

 

10月31日

10.31 ソ連政府の声明がプラウダ紙に掲載される。アレン・ダレスCIA長官はこれを「ミラクル」と呼んだ。

10.31 ブダペスト滞在のミコヤンらは、反ソビエト活動の活発化をモスクワに報告。

10.31 フルシチョフはチトー大統領との会談で軍事介入の可能性に言及。

10.31 ソ連共産党幹部会、前日までの不介入方針を変更し、第2回目の軍事介入に踏み切る。

解禁文書による会議の経過http://www.gwu.edu/~nsarchiv/NSAEBB/NSAEBB76/doc6.pdf: フルシチョフは「過日(28日)の結論は再検討されなければならない。ソ連軍はハンガリーからもブダペストからも撤退してはならない。逆にソ連はハンガリーの秩序回復のイニシアチブをとるべきである」と語った。
彼はその理由としてハンガリー共産党政府の弱体をあげたが、むしろその論点は、ソ連帝国の名誉を守ることに置かれていた。「今日はエジプト、そして次はハンガリーだ」
奇妙なことに、彼は正常化過程にナジを含める可能性も否定しなかった。採決で侵攻案に反対したのはサブロフ副首相のみであった。(ミコヤンとスースロフはブダペスト滞在中)

10.31 ソ連軍は、ブダペスト再攻撃に向け移動を開始。ソ連本国の大増援部隊が東ハンガリーに結集しはじめる。

10.31 回顧録によれば、ハンガリーから戻って真相を知ったミコヤンは、フルシチョフの自宅に押しかけて、自らの自殺をほのめかして派兵の撤回を求めたという。

10.31 ナジ、ソ連軍の機甲師団が国境を越えたことを知る。