ハンガリー事件年表

1945年

2月 第二次大戦で枢軸側についたハンガリーの敗北。ハンガリーはソ連の占領下に置かれる。

2月 ソ連占領直後の政府指導者は親ナチス派のダールノキ・ミクローシュ・ベーラだった。治安警察は親ナチス派のホルティ・ミクローシュ以下のメンバーがそのまま残存した。

2月 ソ連に亡命していたラーコシ・マーチャーシュがハンガリー共産党の書記長に選出される。「スターリンの最も優秀なハンガリーの弟子」を自称する。

9月 「解放」後最初の国政選挙。独立小農業者党が大勝しティルディ・ゾルタンが首相となった。(マジャール語では日本語と同じく人名の最初が苗字、後が名前)

1946年

2月 ハンガリー共和国が樹立される。ティルディが大統領に選出される。ティルディの後任の首相はフェレンツ・ナジが務める。

46年 通貨のペンゲーが暴落してハイパーインフレーションがおこる。

1947年

47年 パリ条約。ハンガリーはソ連、チェコスロバキア、ユーゴスラビアに対して30億ドルの戦争賠償を払う義務を負わされ、さらに赤軍の駐屯費も負担することとなった。これは、当時の国内総生産の2割程度に相当する。

47年 マーシャル・プランが導入される。ポーランドとチェコの共産党政権は加入を検討。

9月 スターリン、東欧の漸進的改革を放棄しコミンフォルムを創建。東欧諸国の直接支配を強化する。

10月 ソ連軍を後盾とする共産党がクーデター。ラーコシの率いるハンガリー共産党が全権を握る。小農業者党のディンニェーシュ・ラヨシュが首相の座に留まる。

47年 ハンガリーの非共産主義政治家、新たな連合政権に協力するか国外に亡命するかの選択を迫られる。

1948年

6月 ハンガリー共産党は社会民主党を吸収してハンガリー勤労者党(Magyar Dologozok Part)となる。小農業者党は、勤労者党の率いる人民解放戦線に吸収された。

12月 カトリック教会の国内最高位 Jozsef Mindszenty 枢機卿が逮捕され、終身刑を言い渡される。

48年 「社会主義への独自の道」を主張するユーゴがコミンフォルムから除名される。

1949年

5月 現職の外務大臣で共産党政治局員のライク・ラースローが、スパイ容疑で逮捕される。ライクはチトーと同じく「独自の道」を提唱していた。

8.10 新憲法が公布され、国名をハンガリー人民共和国と改める。

10月 ライク・ラースローが処刑される。

12月 労働者の99%が国家公務員となる。農村では強制集団化、農産物の強制供出が進められた。

49年 国家警察(AVO)がハンガリー国家保安局(AVH)と改称。7千人以上を捕らえ、見せ物裁判(Koncepcios per)にかけた。対抗勢力をサラミを薄切りするように徐々に抹殺していく、「サラミ戦術」と呼ばれる。

49年 ソ連との間に経済相互援助協定が締結される。ソ連はハンガリーに恒久的基地を配置する。

1950年

50年 粛清の嵐が吹きすさぶ。社会民主党出身のサカシッチ最高幹部会議長の逮捕(1950年4月)、リース法務大臣の虐殺(1950年9月)、保安警察幹部のスーチ兄弟の虐殺(1950年10月)が続いた。

1951年

4.21 党政治局員および内務大臣カダール、スパイ容疑で逮捕される。カダールは清廉潔白な身ではなく、ライク処刑や社会民主党幹部処刑においてはみずからも重要な役割を担ったといわれる。

1952年

8月 ラーコシ書記長、ハンガリー首相を兼任することとなる。

1953年

3.05 ソ連共産党書記長スターリンが死去。

3.14 ソ連共産党、首相にマレンコフ、第一書記にフルシチョフを選出する。


6.13 モスクワでハンガリー勤労者党とソ連共産党政治局の会談。ソ連側参加者はマレンコフ、モロトフ、フルシチョフ、ミコヤン、カガノビッチ、ベリヤだった。

6月 会談の席上、ベリヤ第一副首相はユダヤ人をハンガリーの最高指導者にすえたとラコシを叱責した。そしてラコシが「ハンガリーのユダヤ王」になろうとしていると非難した。そして労働環境の改善や言論の自由を要求。ナジを首相に指名するよう促した(人種差別発言のように聞こえるが、実際、党の中心幹部はラコシを含めユダヤ人で固められていたのである)

6.15 ソ連、ユーゴスラビアと外交関係を復活。

6.17 東ベルリン暴動が発生。これに危機感を抱いたソ連共産党指導部は事件の責任者としてベリヤを追放。東欧諸国のスターリニスト体制の調整に乗り出す。

6.27 ハンガリー勤労者党中央委員会総会。勤労人民の利益を無視した行き過ぎた工業化と、農業の強制集団化の誤りを指摘する。さらに集団指導の欠如と個人崇拝の責任がラーコシらにあると名指しで非難。新首相にナジ・イムレを選出する。しかしラーコシは第一書記に留任することに成功。

ウィキペディアによれば、ラーコシらはみずからの誤りが暴露されないよう画策した。その結果、総会決議は公表されなかった。

7.04 国会でナジが首相に選出される。ナジはまず政治犯を釈放。一方でラコシがテロを支配手段としていたと攻撃、この発言は党機関紙で発表された。

7月 ナジによる「新路線」がスタート。農業集団化は過度の重工業化を中止、軽工業・食品工業への重点移行などを打ち出す。

12月 集団農場の農民は半分に減少。しかし農業生産は激減する。ラーコシ派党官僚のサボタージュによるものとされる。

1954年 

5.22 ハンガリーとユーゴスラビアのあいだに通商関係復活。

5.24 ハンガリー勤労者党第3回大会。第一書記にラーコシを再選する。

10.23 ハンガリー愛国人民戦線創立大会。ナジ首相が演説。

1955年

2.08 マレンコフ首相が辞任し新首相にブルガーニンが就任。フルシチョフ第一書記が主導権を掌握する。

3.02 勤労者党中央委員会総会。ナジ・イムレを右翼日和見主義者と非難。

4.14 勤労者党中央委員会総会。ナジ・イムレを政治局と中央委員会から追放する。

4.18 国会がナジ首相を解任。新首相にヘゲドゥシュ・アンドラーシュを選出。背景に経済「新路線」の失敗。

5.14 NATOに対抗するワルシャワ条約機構が成立。

5.26 フルシチョフ第一書記を団長とするソ連共産党代表団がユーゴスラビアを訪問し関係修復を図る。ベオグラード宣言を発表。それぞれの国が独自の社会主義への道を追求する権利を持つとされる。

12.03 勤労者党、ナジ・イムレを除名。ラーコシが完全復活する。