Ⅵ リャマサレス幹事長の時代

00年12月のIU第6回定期大会で激変が起きた。ガスパル・リャマサレスが「開放左翼」グループを形成。共産党員でありながらフルトスに反旗を翻した。僅差で勝利し幹事長に就任する。(ウィキペディアではアンギータがリャマサレスを推したとされるが真偽は不明)

リャマサレスはPSOEとの共闘路線を破棄し、独自路線への転換を図った。

リャマサレスは医師でマドリード大卒業後ハバナ大学で公衆衛生の学位をとったという珍しい経歴。なかなかの色男だが、どういうわけかオサマビンラディンに似ているといわれる。アストゥリアス州で議員となり共産党州委員会の書記をつとめた。

労働者を基盤とした伝統的な闘争スタイルに対し、エコ・ソーシャリズムなるキャラを打ち出し、IUのイメージアップ作戦を展開した。いわば「新左翼」路線である。

しかしこの路線での失地回復はならなかった。むしろ共産党のフルトス書記長とのあいだで路線が股裂き状態になり、混迷したことから、共和主義左翼や社会主義行動党などIUを構成する主要政党が離れていった。

04年3月の同時爆弾テロは社会労働党の逆転勝利をもたらした。統一左翼はさらに後退しわずか3議席となった。サパテーロ新政権は、直ちに外交政策を転換し、欧州との関係改善に努めるとともに、イラクからの派兵を引き上げた。

社会労働党の支持が高まるのと逆比例して、統一左翼の人気は失墜し、存続すら危ぶまれるようになった。

04年12月に第8回臨時大会が開かれた。この度はフルトス書記長は立候補せず、共産青年同盟のエンリケ・サンチアゴが対立候補となった。リャマサレスは一位となったが過半数を取れず、決選投票で2,3位連合が組まれると負ける状況になったが、州の地評に1票を与えるという奇策を生み出して勝利した。

大会の模様を報じる文章があり、以下のように記されている。

リャマサレス派は社会労働党政府と協調しながら、社会・メディア活動に組織の力点をおくよう主張する。サンチアゴ派は、社会労働党と一定の距離を保ちながら独自の社会運動を展開するよう主張。

どうも、00年の記載から見ると両者があべこべのようだが、リャマサレスはかなり振幅の激しい人なのかもしれない。

Ⅶ 新たな旅立ちへ

結局、04年の大会は統一左翼の弱点をそのまま引き継ぐ結果にしかならなかった。組織の股裂き状況は解決されず、政策も一貫性を欠いていた。

統一左翼からはさらに「赤い潮流」や「革新空間」などの小組織が離れていった。

08年3月の総選挙は、さらに厳しいものだった。統一左翼はIUは100万票に届かずわずか2議席と惨敗を喫した。その後もリャマサレスは去就を明らかにしないまま経過したが、大会を直前に控えた10月25日、ついに辞意を表明するに至った。

11月、統一左翼の第9回大会が開かれた。共産党はカヨ・ララを推し、リャマサレス派はマドリード地評のイニェス・サバニェスを推した。ララは農民運動の出身で70年代末に共産党に入党した比較的若手の党員である。

結果はララ43%、サバニェス27%で最終決定は連邦政治評議会に一任されたが、12月14日65%の支持を得てララが幹事長に就任した。

なおリャマサレスは引き続き統一左翼の議員団長の席にある。その容貌もあいまって、いまなお人気は絶大である。10年初めには、FBIがウサマ・ビンラディン容疑者の「現在の顔」として作成した合成写真に、彼の修正された写真が無断で使われていた。これで世界中に有名になってしまったので、グーグル検索するものにとっては大迷惑である。

これまで共産党の中にも統一左翼は無意味だとして脱退をもとめる声があったが、それらは一掃された。

09年11月には党大会が開かれ、フランシスコ・フルトスに代わりホセ・ルイス・センテリャが書記長に就任。対立候補はなく85%の信任を受けた。統一左翼からの撤退動議は13%の支持にとどまった。つまり共産党は統一左翼と心中する覚悟を決めたことになる。

10年1月には統一左翼全国大会が開かれ、これまでの政治組織に加え種々の社会組織が参加した。共和主義左翼も復帰した。労働者委員会と労働総同盟がオブザーバー参加した。大会は「変革の受け皿となりうる左翼の再建」をスローガンに掲げた。

7月には統一左翼の「再建会議」が開催され、「社会変革のための有用で活力のある提案」をおこなう「新しいタイプの政治勢力の形成」を追求することで合意した。

そして「五月15日運動」の昂揚を経て、11月の総選挙を迎えた。統一左翼は得票を71万増やし、得票率を倍近くの6.92%に引き上げた。この結果一気に二桁の11議席を獲得することになった。

地獄を見てきた統一左翼の復活は本物であろう。