Ⅳ フリオ・アンギータの時代

フリオ・アンギータは大学の歴史の先生で、フランコ時代に秘密党員となった。民主化されて間もない1979年、彼はコルドバ市長に当選した。

7年にわたってコルドバ市長を勤めたあと、党再建を託され、88年2月の党大会で共産党書記長に就任した。彼は統一左翼の強化を主張し、その第1回大会で幹事長に就任した。

アンギータは統一左翼を率いる立場から、社会労働党との正確な関係を打ち立てるのに心を尽くした。彼のモットーは“programa, programa, programa”であった。つまり個別の計画ごとに協定を結ぶべきであり、システムとして縛るような協定はいけないということである。

これはとりわけ社会労働党が右傾化を強めている状況の下では、守るべき鉄則であった。しかし党幹部のあいだからは、社会労働党との関係を強めようとする圧力が絶えずかかっていたとされる。

アンギータは心臓に持病を持っていた。98年に心臓発作を起こした。12月の第14回党大会で共産党書記長を辞任する。

しかし任期の関係で統一左翼の幹事長には引き続きとどまった。99年、二度目の発作に襲われたアンギータは、00年に統一左翼の幹事長からも引退することになる。

Ⅴ 国民党政治と統一左翼

社会労働党は10年間の政権時代に制度疲労を起こしつつあった。EU加盟により経済成長が始まったが、89年には原油価格の高騰により不況を迎えた。政府は雇用契約の自由化など労働者への犠牲しわ寄せによって苦境の打開を図った。

国内に貧富の差が拡大し、新富裕層は独自の政党として国民党を結成し、政権奪取を図るようになった。

政府は起死回生の手段としてバルセロナ・オリンピックとセビリャの万国博で人気回復を図ったが、いずれも思わしい経済効果を上げることなく終わった。むしろ逆に政府債務を増大させ、経済危機を深刻化させた。また事業にかかわる汚職・腐敗が横行し、ますます国民の信頼を失う結果となった。

96年3月、総選挙で社会労働党は惨敗。これに代わり国民党右翼政権が登場した。この間統一左翼は一貫して国民本位の立場を堅持し、得票率を11%にまで伸ばした。

この方針が揺らいだのが99年、フランシスコ・フルトスが共産党書記長に就任してからである。統一左翼の筆頭候補となったフルトスは国民党政府打倒の立場から、社会労働党と手を組むことを決めた。(ウィキペディアには“a polemic agreement”と記載されている)

00年3月の総選挙で、統一左翼は社会労働党と協定を結んで闘った。結果はどちらのためにもならなかった。国民党は過半数を握る大勝利。社会労働党は敗れた。悲惨なのは統一左翼で得票率は5%、議席は20から8にまで低下する惨敗振りだった。