スペイン統一左翼の歴史 その1

正直言って、「世界政治」が廃刊になってからの欧州共産党の動きはさっぱり分からなくなっている。赤旗の報道は断片的で、勝ったときしか載らないから、ずっと調子が悪いままだとずっと載らなくなる。

ということで、ネットで情報を集めてみたが、載らないのは赤旗ばかりではなく、少なくとも英文情報でも情報不足は同じだ。したがって今回集めた情報にもバイアスがかかっている可能性はある。そのことをご承知の上でお読みいただきたい。

 

Ⅰ カリリョ失脚の顛末

77年4月に共産党が合法化され、地下から25万人の党員が姿を現したときは、みんなびっくりしたものだ。40年近くの非合法の時代を生き抜いて、冗談でなく命がけで党を守り抜いた人々がいたということで、あらためて人民戦線の偉大さに感動した。

この数字がダテでなかったことは、わずか2ヵ月後の総選挙で証明された。共産党は171万票(6%),19議席を獲得したのである。逆にフランコ派の大衆同盟は16議席と惨敗した.

社会労働党もこの頃はまだ左翼としての立場を堅持しており、明日にでも人民戦線政府が成立するのではないかとさえ思わせた。

ところがその後数年のあいだに状況は一変する。

政権獲得を狙う社会労働党は党内のマルクス主義傾向を一掃し一気に右傾化を強めた。ソ連はユーロコミュニズムを標榜するスペイン共産党とカリリョ書記長を攻撃し、ソ連派を集めて統一スペイン共産党を結成する一方、党内にも親ソ派フラクションを形成した。

地下に建設された党としては当然であろうが、鉄の規律がもとめられ、その上にスペインの徳田球一、カリリョ書記長の独断専行が乗っかるという構造がそのまま持ち越された。こういう組織は守りには強いが、合法化されさまざまな分野での活動が一気に広がるあらたな状況には対応できない。

さらに国会に23議席を持ち、国民に対して責任を持つ政党としては、国民政党としての論理を併せ持つことが迫られる。端的に言えば、カリリョの唱えたユーロコミュニズムがカリリョの思惑を乗り越えてどんどん進行し、カリリョを追い詰めて行ったのである。

82年10月の選挙は国民の共産党に対する失望の現われだった。国民は「変革のために」のスローガンを掲げた社会労働党を政権につかせる一方、共産党はわずか4議席に後退することになる。

これを受けたカリリョは責任をとり書記長を辞任するが、腹心のヘラルド・イグレシアスを書記長にすえ院政を諮ろうとした。

 

Ⅱ 党の混乱から統一左翼の結集へ

文字通りの「ユーロ・コミュニズム」の党となるためには、家父長的支配の秘密結社的体質は似合わない。開かれた国民政党への全面的なイメージ・チェンジが必要だった。

党はゴンサレス社会労働党政権の政策に反対し、政治変革を求める広範な左翼との共同を求め、「左翼の結集」路線を打ち出した。

この方針はしかしながら茨の道を辿ることになった。カリリョは親方針に大いに不満で「社民主義、清算主義」と非難した。

党内部の混乱を見たソ連は、ここぞとばかりに分裂をあおった。統一スペイン共産党ばかりでなく、党内のソ連派を動かし「新党」結成に動いた。84年1月、ガジェゴらが離党しスペイン人民共産党を結成すると、ただちに新党支持のキャンペーンを開始した。

混乱がようやく収束したのは85年のことだった。4月に開かれた中央委員会でカリリョら19人を指導部から解任することを決議したのである。その後の全国協議会では賛成209、反対0、棄権3で中央委員会決定が承認されている。

10月にカリリョ派は党を離れ、別党を結成したが、まもなく影響力を失っていく。しかし77年に25万だった党員は8万6千まで減っていた。北風には強かったが、太陽には弱かったのである。

しかし人民の力が衰えたわけではない。そのことは85年6月の年金改悪反対行動で示されている。統一行動には全国50か所で100万人が結集した。労働者委員会(共産党系)と労働総同盟(社会労働党系)の二大労組の呼びかけによるストライキには400万人が参加している。

そして86年に入ると、スペインのNATO加盟に反対する闘争が盛り上がった。3月には国民投票が行われ、加盟反対は40%に達した。

注目すべきは、加盟を推進したのが社会労働党政府であり、反対派は政党としては共産党しかなかったということである。つまり無党派左翼が極めて大きな力を発揮したということになる。

 

Ⅲ 統一左翼の模索

6月の総選挙を目指して、急遽「統一左翼プラットフォーム」が結成された。共産党、カタロニア統一社会党、社会主義行動党、共和主義左翼、カルロス主義党などが参加した。ガジェゴらのスペイン人民共産党も加わった。

しかし国民投票でNATO加盟反対に賛成した人々はそのまま統一左翼に来るということにはならなかった。前回選挙で共産党が獲得した議席数から言えば、3議席増えたが、結局地力を持つ共産党にプラスアルファというのが、最初の結果だった。

わずか2ヶ月でこれだけの成果を生み出したと見るべきではあろうが、無党派層はそれでは満足しなかった。あきらめの早いのは無党派層の特徴で、根っこに抜きがたい反共思想もあるだろう、次々と歯が抜けるように統一左翼を離れていった。

それから3年間、統一左翼はそのアイデンティティを求めて模索が続いた。88年にはイグレシアスが共産党書記長を辞任、フリオ・アンギタが後任となった。カリリョの影響力がなくなるのに伴い人民戦争の英雄リステル、別党を創設したガジェゴらが復党した。ソ連追従を貫くグループはガジェゴと分かれ、統一左翼からも離脱していった。

状況打開のきっかけとなったのは、またしても大衆闘争だった。共産党系の「労働者委員会」と社会労働党系の労働総同盟は、社会労働党のネオリベラル政策に反対し、88年12月に統一ストを実施した。このストライキには800万人が参加した。このストの後、労働総同盟は社会労働党への支持を取りやめるようになる。

こうした中で89年2月に、第一回の統一左翼全国大会がもたれた。発足以来実に3年ぶりになる。事実上の再スタートといってよいだろう。

統一左翼は「政治的・社会的」運動と指定され、将来の政党化に含みを残す表現となった。8ヶ月にわたる準備を経て臨んだ総選挙で、9.07%、17議席を獲得し、得票数で第3位、議席で第4位政党となった。

こうして8年ぶりに中央政界に確固とした左翼の拠点が形成されることとなった。