Ⅶ 「虹の左翼」連合とその惨敗

左翼民主党の右傾化は果てしなく続いていきます。98年には「左翼民主主義者」と改称。シンボルから鎌と金槌をとり、その代わりにバラを挿入するという小細工を演じました。要するに階級性の放棄ということです。

そして07年10月にはマルゲリータ(旧キリスト教民主党左派グループ)との統合により民主党が結成されました。日本で言うと社会党が自民党の一部とくっついて民主党を作ったのと同じです。

ここまで来るともう付き合っていられません。というよりここまで付き合ってしまったことの責任が問われます。

再建党はこれに対抗して「虹の左翼」連合を結成しました。これにはイタリア共産主義者党(再建党の旧コスッタ派)、民主的左翼(民主党結成に反対した左翼民主党内グループが結成)、それに「緑の連盟」が加わりました。

こうして臨んだ08年4月の総選挙ですが、結果は上下両院共に3%台。4%未満の政党には議席配分しないという足切り条項により、再建党も虹の左翼も議席を全て失ってしまいました。

いっそ気持ちのいいくらいの大敗北です。

Ⅷ 再建党の再建に向けて

ジョルダーノ書記長は敗北を受け、左翼建て直しと幅広い「左翼党」の結成のための公開大討論をおこしたいと訴えました。これは「まるっきり分かっちゃいない」ことの告白となりました。

議席を取るための員数合わせをやってる場合ではありません。それは究極の「議会主義クレチン病」でしょう。いまは生き延びること、党としての基本路線をあらためて検討し、左翼政党としてのアイデンティティーを確保することこそが、もっとも緊急の課題でしょう。

08年7月に党大会が行われました。「一歩前進二歩後退」を地で行く論戦が繰り広げられました。

主流派であるベルティノッティ派が核分裂を起こしました。そして指導部の提案した基本路線は否決されました。ジョルダーノ書記長は罷免されました。

そして主流派内の反指導部派が、非主流派や反主流派と組んで提出した「民主党との連携を原則的に拒否し、共産主義政党としての独自性を追求する」大会最終文書が採択されました。

大会最終日の29日、新しい書記長を決める選挙が行われました。主流派はアプリア(Apulia)州知事で公然ゲイのニキ・ヴェンドラを推しました。これに対して非主流4派はパオロ・フェレーロ前社会連帯相を統一候補として推し出し、両者の一騎打ちとなりました。結果は53%対47%でフェレーロの勝利となりました。

フェレーロは元フィアット自動車の労働者で、元々共産党員ではなく、プロレタリア民主党から政治的キャリアを出発させた人です。しかしベルティノッティ時代にはその中心的役割を担ってきました。

Ⅸ 再建党はこれで終わる政党ではない

ニキとジョルダーノはただちに「左翼のための再建(党)」を掲げる党内潮流の結成を宣言しました。そして09年1月には党機関紙「解放」の編集方針をめぐり衝突した後、集団離党し「左翼のための運動」(Movimento per la Sinistra:MpS)を結成しました。

ニキは再建党を「亡霊の巣窟」と批判するにいたっています。

しかし選挙での議席回復はいまだ果たせていないものの、大衆運動への積極的かかわりは続けられています。

09年11月にはPdCI、消費者統一などが左翼連合を結成し、水道民営化反対、原発建設の中止をもとめる国民投票では中心的役割を果たしました。労働センターCGILのなかにも強固な基盤をもっています。

今回の財政危機をめぐっては、民主党などが財界支持と国民変犠牲推しつけの立場をとり続ける中で、国民と勤労者の利益を代表する政党としての役割がさらに期待されます。