Ⅳ 確立された反帝・反独占の立場

99年3月の第四回臨時大会ではベルティノッティが84%の支持を得ました。 党はベルティノッティの下で、たんなる反対派でもなく、ソ連追従派でもない独立自主の立場を確立したといえるでしょう。

大会の基調報告では、「オリーブの樹」の政策に反対の立場を再確認しました。そして左翼民主党に対する批判を強め、ネオリベラリズムに反対する立場を確認しました。

そして当面する課題を、新自由主義の経済的・イデオロギーとの対決と、独自の社会的プロジェクトの定式化におきました。さらに議会闘争ばかりでなく、大衆運動を重視する姿勢を打ち出しました。

それまで左翼民主党内にとどまっていた左派の重鎮ピエトロ・イングラオとピエトロ・フォレーナもあらたにせんれつにくわわりました。

2001年の総選挙で、中道左派政権は敗北し、金権とメディア支配のベルルスコーニ右翼政権が登場しました。再建党は得票率を5%まで落としました。しかし世界を席巻する新自由主義の雰囲気の中で、党を二分する路線論争の後の選挙ですから、こんなものでしょう。

Ⅴ ベルルスコーニの悪政とルニオーネ

選挙後、第二次ベルルスコーニ政権が登場すると、イタリア社会の状況は急速に悪化します。それまで曲がりなりにも中道左派政権の下で国民の暮らしは守られていましたが、貧富の差は拡大し、失業者は増加し、労働者の権利は奪われていきました。

さらに右派政権はブッシュの世界支配戦略に積極的に加担し、基地強化や海外派兵などの動きが強められていきます。

こうした中で進歩勢力の統一を求める声が急速に高まりました。この声に応えるため、再建党はふたたび中道左派との連合に乗り出します。

03年の6月にはベルティノッティ書記長が左翼民主党との違いを保留しつつ選挙連合を組む意向を表明。04年11月の全国政治委員会では、大民主連合(GaD)に参加することが決定されました。

翌年ルニオーネ(l'Unione)と改称した大連合では、06年総選挙に向けた政策協定作りが始まります。

ただこの時点でも、党内には選挙連合をめぐってかなりの異論があったことは見ておかなければならないでしょう。たとえば、05年3月の党大会ではベルティノッティに対する信任投票が行われていますが、賛成143、反対85、棄権2、無投票30という結果になっています。

Ⅵ 06年大躍進の功罪

06年4月に行われた総選挙ではルニオーネがベルルスコーニを破り勝利しました。。再建党は上院27議席・下院41議席を獲得するなど大躍進を遂げました。

この結果、ベルティノッティが下院議長に就任、パオロ・フェッレロ(Paolo Ferrero)が社会連帯大臣となるなど議会内に大きな比重を占めることになりました。

ただそのぶん、政府に対する責任も大きなものとなります。前回オリーブの樹時代には「是々非々」の閣外協力に過ぎませんでしたが、今回は政策協定を結び、閣僚を送り込んでの連立です。政権に対する誠実さが求められることになります。

その矛盾はただちに現れることになりました。雇用の問題などが一向に改善されない中で、国民に犠牲を押し付ける政策が次々に打ち出されてきます。さらに07年1月にはイタリア軍のアフガニスタン派遣延長が決定されます。

民衆はルニオーネ政権に対して抗議の声を上げ始めました。07年10月にはローマで不安定雇用に反対するデモが行われ、主催者発表で100万人を結集する大集会となりました。デモには老イングラオ(93歳)も参加しています。

再建党は股裂き状態となりました。下院議長に就任したベルティノッティに代わり、書記長に就任したフランコ・ジョルダーノ(Franco Giordano )ら党執行部は、現実路線への転換を模索し始めました。これはいままでのベルティノッティ路線とはまったく逆方向です。

「ダイヤモンドに目がくらんだ」執行部に対して下部からは強い反発が巻き起こります。こうなると寄せ集め政党の矛盾が露呈されることになります。

選挙後の1年で、4トロ系のバンデラ・ロッサ、共産主義変換党(Communist Alternative Party)グループ、マルコ・フェランドのグループ、ルイジ・イッツォのグループなど急進主義派が次々と党を離れました。99年に12万を数えた党員も10万を割り込むまで減少しました。