Ⅰ 党の創立。

1989年12月、ソ連・東欧の社会主義諸国の崩壊を目前にして、イタリア共産党は一気に右転換を行います。これが「ボローニャの転換」と呼ばれるもので、マルクス主義の放棄と社会民主主義の選択を宣言します。

それから1年間の議論を経た末に、91年の1月に最後のイタリア共産党大会が開かれました。

イタリア共産党には三つの潮流がありました。生協などが主体の右派、ベルリンゲル以来の中央派、そして労働運動を主体とする左派です。このうち中央派と右派が解党を支持しました。左派は共産主義の思想を守るよう主張しますが、解体と左翼民主党の結成に当たってはどうするか悩みました。

そのとき、ソ連追従派のコスッタが新党コースを提起したのです。コスッタ派は共産党大会終了後まもなく「共産主義再建運動」を起こしました。委員長にはコスッタが、書記長にはセルジョ・ガラヴィーニ(Sergio Garavini )が選ばれました。

この後、イングラオ派と呼ばれる左派から、続々と再建党に流れるようになります。ガラヴィーニは旧共産党ばかりでなく、「新左翼」と呼ばれる人びと、トロツキスト系にも結集を呼びかけました。

これに応じて「プロレタリア民主」の多数派は再建運動への合流し、共産主義者の単一党結成を呼びかけました。4トロ統一書記局派の流れを汲む「バンディラ・ロッサ」(赤旗)も合流してきます。

 

Ⅱ ベルティノッティ書記長の就任

こうして共産主義再建党が結成され、活動が開始されたのですが、どちらかといえば烏合之衆のようなもので、今後どうして行くのかをめぐってはなかなか意見がまとまりませんでした。

ガラヴィーニ書記長は左翼民主党との統一行動を提案しますが、全国指導部に拒否され辞任します。コスッタ委員長は左翼民主党に残っていたファウスト・ベルティノッティ( Fausto Bertinotti )に書記長就任を要請しました。ベルティノッティはイングラオ派で長い間CGILの指導者でもありました。

ベルティノッティが93年6月に書記長に就任したあと最初の総選挙がやってきました。左翼民主党は、これまで戦後一貫してきたキリスト教民主党による保守政治を打破するため、左翼勢力の大同団結を訴えました。

これに再建党も応え、左翼8党の進歩連合が結成されました。選挙は右派のベルルスコーニが勝利しますが、再建党も6%の得票を獲得し、議会に議員を送り込むことに成功します。さらに欧州議会選挙や地方選挙でも一定の議席を獲得するなど、政界の一角に確固たる地位を占めるようになりました。

 

Ⅲ オリーブの樹への加盟と脱退

96年の総選挙では、ベルルスコーニ政権打倒のためにふたたび野党連合が組まれました。中道左派連合「オリーブの木」はこの選挙で勝利、ロマーノ・プローディ率いる政権が誕生します。

再建党は得票率8.6%、35議席を獲得しました。そして閣外協力の形で与党の一角を占めることになりました。

ところが、左翼民主党の右傾化はこの期間を通じて一気に進行して行くのです。再建党はユーロ導入などの新自由主義的経済政策に反対し、ついに98年9月には内閣不支持を表明するに至ります。

こうして議会ではプローディ内閣不信任決議案が1票差で可決されました。左翼民主党から見れば裏切りでしょうが、民衆の立場からは筋を通したともいえます。

この判断をめぐり全国政治委員会が開かれました。ベルティノッティ書記長を支持するものが188票を獲得し、内閣支持を主張するコスッタ派112票を圧倒します。

党創始者コスッタ議長は再建党を離れ、イタリア共産主義者党を結成。オリーブの木に残留することになりました。すでにガラヴィーニ前書記長は、前政権時に保守政権を支持。その後左翼民主主義者に合流しています。

こうして創立以来10年で、議長と書記長を含め、創設時の7人の指導者のすべてが指導部を去りました。