「悪平等」という言葉がはやっている。いやな言葉だ。
生活保護を制限しようとするときの言葉だ。老人医療を削ろうというときの言葉だ。年金を減らそうというときの言葉だ。
生保の金をもらってパチンコ屋に行く人を非難する言葉だ。母子家庭で働かない母親を非難する言葉だ。家に閉じこもってインターネットばかりやっている若者を非難する言葉だ。
そういう連中を弁護するつもりはない。いつも世の中にはそういう人たちはいるものだ。自分の周りに100人の人がいれば、その中にいやなやつは必ず1人2人はいる。
そういうやつを世の中からつまみ出し、はじき出す方法は、残念ながらないのだ。そういうやつほどうまく立ち回るから、もしそんな方法を見つけ出して実行すれば、関係ない人がとばっちりを食うだけなのだ。
そういう人もふくめての社会と観念するほかない。そんなことは世間の常識だろう。悪いことをすれば取り締まればいい。悪いことをしているのでなければ、それが私事であれば、お互い我慢するしかない。これはルール以前の問題である。
ルールはお互いの寛容を前提としている。「自由の尊重」ともいえる。それがその人の生き方であれば、善悪は別として尊重しなければならない。
髭、長髪、奇抜な服装、タバコ・酒、高歌・放吟の類など枚挙にいとまない。「悪平等」論はこういう連中のこういう行為をもって、こういう連中に平等な人としても権利を認めるのはけしからんという論理である。
北海道弁で言えば「めんこい奴には満額出すが、めんこくない奴には金やらない」という論理である。
それはおかしいだろう、どうやったってこうやったって、月10万では食えんだろう。そういう中でも精一杯突っ張っている人に、「めんこくないから金やらない」ではないだろう。人を馬鹿にするのはいい加減にしろ、切ればあんたと同じ真っ赤な血が流れているんだぞ。