アラブ・アイデンティティの再確認

多くの点で、20世紀初頭のアラブ民族主義(当時はArabism と呼ばれた)は改革主義者の議論の政治的な表現であった。それはたとえばRashid Rida, Abd al-Rahman al-Kawakbi, Tahir al-Jaza'iri, Abd al-Hamid al-Zahrawi らであり、その学徒たちであった。

アラブ・イスラム改革主義者にとって、アラブ民族主義はアラブ・アイデンティティを再び確認する手段だった。そしてオスマントルコがイスラムを保護 できず、アラブとムスリムの土地を守ることに失敗したことに抗議し、アラビズムに同調するアラブ人の数を増やすことによって、それに対する答えとしようと した。この点において、アラブ民族主義はたんなるイスラムのアイデンティティの再規定にとどまらず、イスラムの再生と不可欠のものとして想定されるように なった

両大戦間の期間、アラブ・イスラム改革運動の学生がアラブ反帝国主義者闘いで主な役割を演じ続けた。そしてアラブのエリートの社会的・知的構成の段階的な変化は、倫理的にはアラブ主義者の主張に完全に沿う形で発展を遂げていくことになる。

第一次世界大戦のあと、統一し独立したアラブ国家の創設に失敗するという経験に直面して、若いアラブ民族主義者、たとえばDarwish al-Miqdadi, Zaki al-Arsuzi, Edmond Rabat and Qunstantin Zurayq らのようなベイルートのアメリカ大学、英仏の大学卒業生らは、想像上の民族の本質的パワーを用いてアラブ統一のプロジェクトをもとめた。

1920年代半ばのフランスによるダマスカス爆撃、パレスチナへのユダヤ人の移住(イギリスがアラブの反対を押し切って強行した)、1936-39 におけるパレスチナ人反乱への無慈悲な弾圧、モロッコの帝国主義的分断などなど、これらすべてはアラブ人の敗北の感覚を強めた。そして、アラブ民族主義者 の主張の急進化をもたらした。

アラブ民族主義の確立

1930年代と1940年代、植民地支配者の手がふたたび伸びて来た。アラブ国家の崩壊の危機に直面して、アラブ知識人は、排他的なアラブ民族主義イデオロギーの土台を作ることによって応答した。

アラブ主義の初期の世代は、一方において抱合的性格を持っている。たとえばアラブ化したクルド人Muhammad Kurd Ali やKhayr al-Din al-Zirikli などは、「アラブ運動」の旗を立ち上げた。アラブ主義(Arabism)は、「アラブ民族主義」(Arab Nationalism)として言語・人種・地理的境界を乗り越える形で再定義された。

アラブ・イスラム改革主義者にとってはイスラム教の復興が究極のゴールである。これに対して、アラブ民族主義にとっては、イスラム教はその一つの要素として位置づけられた。こうした思想は Sati' al-Husari and Zaki al-Arsuzi ら大戦間世代の多くの知識人が打ち出したものである。

しかし大戦間の時代においては、すべてのアラブ政治勢力にとって最も重要なのは民族解放と諸国家における独立という目標だったから、諸国家を超える アラブ主義は前景には出てこなかった。それが政治の場面に登場するのは、1950年代初期に諸国家において政治分裂の気配が高まってからである。

50年代初め、アラブ主義はイスラム教の世界にも飛び火した。イスラム青年協会やムスリム同胞団のような強力な団体さえ、その内部はアラブ統一とアラブ・アイデンティティの強い信念に彩られていた。

しかしバース党、アラブ・ナショナリスト運動(Harakat al-Qawmiyyin al-'Arab)などが興隆し、アラブ民族主義者の青年将校が決起し権力を握ると、アラブ民族主義者とアラブ・イスラム主義者は分裂し敵対するようになる。そして両者の対立は危機的な段階に達した。


1952年7月23日、自由将校団はクーデターを起こして国王ファールーク1世を追放し、権力を掌握した。農地改革を皮切りに、主力産業や銀行を国有化するなど、いわゆるアラブ社会主義政策を推進した。54年、ムスリム同胞団がナーセル暗殺未遂事件を起こすと、反ナセル派を追放し革命指導評議会議長に就任した。(ウィキペディアより)


アラブ国家内の対立

アラブ諸国家はナセル派と王政・親西欧の反ナセル派に分かれ対立した。長年にわたるアラブ国家間の対立は、アラブ主義とイスラム主義との政治的な分裂を強化した。

それはアラブ主義の形成過程に関する記憶喪失の重い地層を重ねる結果となった。そしてイスラム改革運動とのあいだに解けることのないわだかまりをもたらした。

アラブ・イスラミストとアラブ・ナショナリストは互いに、自らの歴史を書き直すことによって自らの存在を意義付けした。書き直された歴史の中で、他方の存在は無視され、あるいは敵対視された。

1967年の「6月戦争」での敗北は、アラブの政治的・文化的構造の転換点であった。敗戦はアラブ主義国家の究極の失敗とみなされるた。それはアラブ知識人と支配的な党派との間の同盟が終わりに向かう最初のシグナルでもあった。

アラブ知識人の大多数にとって選択肢はなかった。ナセルとその後裔らが支配する国家からの離脱は、アラブ主義が生き残るための唯一の方法とみなされた。

民族主義者知識人がアラブの政治世界において反対派に加わるのと同時に、国家はポスト-民族主義者の世代に入った。そこではイデオロギー剥き出しの統制と権威主義政策は、政治・経済の限定的開放と取り替えられた、

それまでの「反帝国主義」のスローガンは、西の大国とのいろいろな程度の協調に変えられた。そしてアラブ・イスラエル間の「対立の図式」は、「交渉と平和条約」の方向に切り替えられた。

アラブ民族主義はもはや政権を掌握することなく、アラブ知識人は国家機構から立ち去った。彼らの説教は、ますますイスラム主義者のそれに似るようになった。

(その3 に続く)