資本主義は、もろもろの民族的な制限とか偏見とかを乗り越えていく。古い生活様式を破壊し絶えず革命をもたらす。
だが資本主義が止むことなく志向する普遍性は、もろもろの制限を資本主義自身の本性に見出すようになる。
そしてついには資本主義そのものが普遍性を目指す上で最大の制限となっていく。そして資本主義の発展そのものが、資本主義を止揚していくことになる。
(草稿集2-p20)

信用制度は流通の制限を飛び越す。そのことによって、信用制度は過剰取引、過剰の投機をもたらす。
このことは国家間の関係においてより大規模かつ典型的に現れる。
イギリス人は他の国を顧客とするために、それらの国に貸し付けることを余儀なくされる。
…たくさん売り込むためには、たくさん貸し込まなければならない。しかしそれが焦げつけば…
(草稿集2-p28)

競争が始まるのは、歴史的には「資本主義に先行する諸形態」が壊れていく過程と一致する。

すなわち同職組合的強制、政府の取り締まり、内国関税などの解体とともに、自由競争の時代が始まる。また国際的には交易閉鎖、輸出入禁止、保護政策の廃止とともに自由競争が始まった。

それは資本主義以前の諸限界の打破であり、諸制限の否定であった。しかしたんなる否定的なものではなく、「自由放任主義」(レッセ・フェール、レッセ・パセール)という新たな経済思想として積極的に位置づけられた。

それを行ったのは重農主義者であり、まったく正しい特徴づけであった。

しかし、これを自由な諸個人の生産および交換の領域における絶対的な定在形態 と考えるのは"馬鹿話"であり、これほど誤ったことはない。

資本が取り払った諸限界は、資本の運動、発展、実現に対する諸制限であった。決して一切の限界を止揚したのではない。

自由競争によって同職組合などの制度が否定されたのは、歴史的には、十分に強くなった資本主義が自らの運動を束縛する制限を取り払ったため、ということに過ぎない。

自由競争において自由なものとして措定されているのは諸個人ではない。自由なものはただひとつ、資本そのものである。

資本主義的生産様式が、社会的生産力の発展にとってもっともふさわしい時代にあっては、資本主義の純粋な諸条件の下での諸個人の運動が、彼らの自由として表現されることがありうる。

しかしその自由が教義としても保障されるのは、自由競争によって取り除かれた古臭い諸制限への不断の反省によってなのである

(草稿集2-p408)