1530年までの歴史は文献による異同があまりに多く、出典を明らかにし、その信頼性をコメントしながらでないと何も言えないほどです。
これはエルサルに限ったことではなく中米史全般について言えることです。

一般にこの手の問題が発生したときはスペイン系の論文は信用できません。好き嫌いは別にして、アメリカ人の書いた文章で、後ろに参考文献や引用がズラーッと並んでいる文章でなければなりません。

ウィキペディアも、一般的に信用することは出来ません。やはり論文としてきちっとしていないとだめです。

私自身がきわめてだらしない性格なので、大きなことは言えませんが、これだけ問題が紛糾すると、出典を明らかにしながら書いていかなければならないと思います。

どんな文献があるのか。

とりあえずエルサルについて各説の比較を行います。

あくまで相対的なものですが、ネットで利用できるものとしては、まずはアメリカ国会図書館の文献が一番たしかだと思います。

まずはこれで年表を起こしてみたいと思います。

つぎにウィキペディアの「エルサルバドルの歴史」の記載を明朝体で追加記載します。

ついでウィキペディアの関連項目の中に埋まっている事項を、1ポイント小さい明朝で追加します。さらにインターネット上の記事で、出所が明らかで、かつ比較的信頼度が高いと判断されるものも、1ポイント小さい明朝で追加します。

最後に、いまとなっては出典不明ながら、私のこれまでのファイルの中に存在する事項を1ポイント小さいゴシックで記載します。

その後、各項目の突き合わせをやります。その結果を注釈としてイタリックで書き込みます。

これがうまく行くようなら、ニカラグア、ホンジュラス、エクアドルにもこの方式を適用したいと思います。

スペイン人による征服以前のエルサルバドル

この地での主要な先住民はピピル(Pipil)族だった。ピピル族はナウア(Nahua)人といわれる遊牧民族のサブグループである。

ナウア人は紀元前3000年頃にメキシコ方面から中央アメリカに移ってきた。そして徐々にマヤ帝国の支配下に入るようになった。

マヤ帝国の支配は9世紀まで続き、その後衰退した。ピピル文化はマヤ帝国の水準までは到達しなかった。

ピピル族の国家は11世紀に登場した。それは二つの連邦に組織されたが、その連邦は小規模な都市国家からなっていた。

これがウィキペディアでは下記のようになる。

現在のエルサルバドルは3つの先住民国家といくつかの小国からなっていた。

東部地域はレンカ国(Lenca)、北部レンパ川上流の地域はマヤ人系のチョルティ(Chorti)国となっていた。

二つをあわせると、エルサルがどういう構造になっていたかが分かる。それはそれでよいのだが、カントリースタデイでは「二つの連邦」の名前が分からない。ウィキペディアではそもそも二つの連邦があったことさえ記載されていない。

当時のエルサルバドルにはピピルPipils族とトシュトゥヒル族が住み,前者は西部グアテマラよりに,後者は東部から南部の海岸部に勢力を持っていた.

これが私の元ファイル。レンカとトシュトゥヒルは同じものをさしている。両者を突き合わせれば、トシュトゥヒル族が建てた国がレンカ国ということになるが…

Lenca で検索するとウィキペディアで Lenca people という項目が出てくる。これは相当詳しい。

レンカは国の名前ではなく「レンカ人」という概念だ。ホンジュラス南東部とエルサル東部に集団として存在している。現人口は約10万人とされているが、スペインの征服により50万人以上が殺されたと推定されている。ホンジュラスの先住民抵抗運動を率いたレンピラがレンカ人の代表。

ということで、レンカ国は存在しなかった可能性が高い。トシュトゥヒルはとりあえず正文からは抹消しておいたほうがよい。なお Ch'orti' は基本的な生活範囲はグアテマラ・ホンジュラス国境地帯で、あえて取り上げる必要はない。

ピピル族は紀元前3千年頃メキシコから南下したトルテカ,ナウアNahua 族の末裔.その後9世紀にはマヤ帝国の支配下に入った.11世紀にはマヤの支配を離れ,クスカトランとアトラカールの二つの連合王国に再編されていた.

二つの連邦国家の名前が出てきた。しかしウィキペディアにはアトラカールという国名はまったく出てこない。存在そのものが怪しい。抵抗運動の指導者アトラカトルと混同したのではないか。

ピピル族は基本的には農耕民族であったが、多くの大きい都市を建設した。その幾つかは、現代の都市に発達している。たとえばソンソナテでありアウアチャパンである。

ピピル族は勇敢な民族であった。南方へと進出を図るスペイン人に対して決然と対抗した。

その最初がペドロ・デ・アルバラードの率いるスペイン軍との闘いだ。

1524年6月、侵入したスペイン軍は大規模な会戦で敗北し、グアテマラへの撤退を余儀なくされた。

ピピル族抵抗のリーダーの名前はアトラカトル(Atlacatl)で、エルサル人の間では伝説上の英雄として扱われている。

次にウィキペディアの Atlacatl の項目

クスカトラン国の軍を率いた英雄。アルバラード軍がアテウアンに到着しアトラカトルに降伏をもとめた。アトラカトルは住民すべてを山にこもらせた上で、アルバラドを待ち受けた。アルバラド軍が山に侵入したとたん四方から攻撃を受け、軍勢は総崩れとなった。かくして7月4日、アルバラド軍は撤退を余儀なくされた。

2年後の26年8月、ゴンサロ・デ・アルバラド(ペドロの親類に当たる)がサンサルに基地を建設。周囲を徐々に制圧した。

最後に28年にディエゴ・デ・アルバラドが総攻撃をかけた。アトラカトルは捕らえられ絞首刑に処せられた。

ここまではさほど問題となることはない。問題は以下の記載である。

8月 いったんグアテマラに戻ったアルバラドは態勢を立て直し再び出撃。ピピルと同盟を結びトシュトゥヒル族を殲滅.

12 アルバラード,ピピル族のクスカトラン,アトラカール両王国を制圧.ピピル族は山岳部に入り抵抗を続けたため,アルバラードはいったんイシュムチにもどり部隊を再編.

これはかなり眉唾である。深手を負ってグアテマラに引き下がったアルバラードがわずか2ヶ月で前線に復帰し、数ヶ月の戦いの末にピピルを制圧したとは考えにくい。翌年になってもアルバラードは戦闘の指揮を腹心にゆだねているのである。

また、ここでもトシュトゥヒル族が出てくるが、文章を素直に読むと、トシュトゥヒルはひとつの国家であり、ピピルの東ではなく西側、グアテマラとクスカトランの間に存在したと考えたほうがよさそうである。

1525年、第二回目の侵入が行われた。そして1528年に3回目の侵入が行われ。エルサルはスペインの手に落ちた。

1525年に、彼は再び侵攻し、メキシコのアウディエンシアの支配の下に置くことに成功した。

2回目の侵攻はペドロ・デ・アルバラードが直接率いたわけではない。誤解を招く表現である。エルサル征服史に登場するアルバラードは4人いる。一人はペドロその人、二人目はゴンサロで、ペドロの親戚とされるがどういう関係かは不明。しかしこのゴンサロがエルサル征服を実際に行った人物である。三人目がディエゴ(ペドロの弟)。この人が28年に征服の総仕上げを行った。そして同じ28年、4人目のホルヘがサンサルの町を再建した。これら4人の関係については諸説紛々で、追究するのがあほらしくなってしまう。

アルバラードは、この地域をエル・サルバドルと名づけ、最初の知事となり、1541年に死亡するまでその地位にあった。

混乱の最大の元が見つかりました。

下記のサイトはワシントンのエルサル大使館のホームページです。ここにHistory of El Salvador というページがあるのですが、これが間違いだらけなのです。

http://www.elsalvador.org/embajadas/eeuu/home.nsf/

29a8e24e84ab372085256af80057bb56/

6da61722b49b5a3785256b09006eb2b5?OpenDocument

24年6月にペドロがクスカトランに侵攻したというのはいいのですが、17日間の血戦のすえ、アトラカトルは戦死、アルバラドも負傷しグアテマラに撤退、と記載されています。

そして弟のゴンサロが戦闘を継続。いとこのディエゴが25年の4月にサンサルを建設したとあります。そしてサンサルの地をスチトト市の近くのラ・ベルムーダと呼ばれる場所だったと書いています。

この記載はきわめてユニークなもので、他の記事とも矛盾が多いものです。正確な記載を要求したほうがよいかもしれません。

観光案内を見ると、どうもラ・ベルムーダは関係のない記載のようです。28年に再建されたサンサルは現在はシウダ・ビエハと呼ばれるところです。その前25年に建設された場所は、いまはどこか分からないようです。

ラベルムーダには建国直後に作られたアシェンダがあってそこも観光名所になっているようです。