「郵便ポストが赤いのも…」が柳亭痴楽のせりふなのかがどうも確証がつかめなくて、ネット漁りをしていた。

そこで坂口安吾の「“歌笑”文化」という一文に出会った。中央公論の昭和25年8月号に載ったエッセイである。

 http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43193_22385.html

柳亭痴楽の兄貴分に当たる三遊亭歌笑という落語家がいて一世を風靡した。しかし進駐軍のジープにはねられてあっけなく死んでしまった。その死を悼む文章なのだが、どうも褒めているのか貶しているのかわからない文章である。

しかし歌笑をだしにして、芸術家気取りの落語家や通ぶった客を、これでもかこれでもかと罵倒するあたりは実に痛快である。


落語家が、歌笑をさして漫談屋だとか、邪道だというのは滑稽千万で、落語の邪道なんてものがあるものか。落語そのものが邪道なのだ。

落語が、その発生の当初においては、今日の歌笑や、ストリップや、ジャズと同じようなパンパン的現実のもので、一向に通でも粋でもなく、恐らく当時の粋や通の老人連からイヤがられた存在であったろうと思う。

大衆の中に生きている芸術は、常に時代的で、世俗的で、俗悪であり、粋や通という時代から取り残された半可通からはイヤがられる存在にきまったものだ。

それが次第に単に型として伝承するうちに、時代的な関心や感覚を全部的に失って、その失ったことによって、時代的でない人間から通だとか粋だとかアベコベにいわれるようになった畸型児なのである。

だいたい庶民性をまったく離れて、骸骨だけの畸形児となった落語のようなものから、けっして一流の芸術家は現れない。一流たるべき人間は、はじめから、時代の中へとびこむにきまっており、ジャズや、ストリップや、そういう最も世俗的な、俗悪なものの中から育ってくるに きまったものだ。

現代においては俗悪な、そして煽情的な実用品にすぎないジャズやブギウギが、やがて古典となって、モオツァルトやショパンのメニュエットやワルツと同じ位置を占めるようになるものなのだ。いかなる典雅な古典も、それが過去において真に生きていた時には、俗悪な実用品にすぎなかったのである。

昔の型から一歩もでることができずに、大衆の中に生き残ろうなどとムリのムリで、 粋とか通とかいわれることが、すでに大衆の中に生きていないことのハッキリした刻印なのだ。