南シナ海が分断ではなく団結の海となるよう

南沙(スプラトリー)諸島関連年表

南沙諸島(なんさしょとう)、スプラトリー諸島(SpratlyIslands)とは、南シナ海に浮かぶ約100の小さな島々。諸島全体は大変小さな島々で構成され、互いの距離は十数キロメートルから数十キロメートル程度で位置している。現在、島を実効支配しているのは中華民国(台湾)、中華人民共和国、フィリピン、ベトナム、マレーシアである。他にブルネイも領有権を主張している。(ウィキペディアより)

スプラトリー諸島は100以上にのぼる小島・岩礁・洲島の総称であり、これらが東西800km、南北600kmという広大な海域に散らばっている。その海域の面積は日本海の半分近くにもなる。これら100以上の島々をすべて合わせても、合計面積は10km2にすぎない。各島の海抜はほとんど海面すれすれのレベルで、諸島の中のもっとも高い地点でも海抜わずか4mである。スプラトリー諸島とは、広大な海域にケシ粒のように散らばる極小の島々の総称なのである。

西沙諸島をめぐる状況は、南沙諸島とは若干異なるので、関連がない限りは省略する。

1930年 フランスが南沙諸島のいくつかの島を実効支配。

1933年 「人民網日本語版」によれば、フランスが南沙諸島の一部島嶼を占拠すると中国の漁師が抵抗。中国政府はフランス側に厳正な申し入れを行い、撤退を余儀なくさせた。

1938年12月 日本がパラセル諸島とスプラトリー諸島を占領し領有を宣言する。新南群島と命名。台湾高雄市の一部として編入。以降終戦まで支配。リン鉱石の採取従事者が住んでいたが戦火の拡大により撤退した。

1946年5月 フランス軍、パラセル諸島に軍艦を送る。6月には中華民国が、日本軍から支配を引き継ぐ名目でパラセル諸島とスプラトリー諸島に軍艦を派遣。

1946年 「人民網日本語版」によれば、中華民国政府は「カイロ宣言」と「ポツダム宣言」に基づき南中国海の島嶼を回収。「永興」「中建」「太平」「中業」の軍艦4隻を派遣して4大諸島を接収した上、島で接収式典を行い、改めて主権碑を建てた。

1949年 フィリピンがスプラトリー諸島の領有を宣言する。

1951年4月 サンフランシスコ平和条約が結ばれ、日本がパラセル諸島とスプラトリー諸島を放棄する。これらの諸島がいずれの国へ返還されるかについては、言及がなされなかった。

1951年 周恩来総理、「米英の対日講和条約案およびサンフランシスコ会議に関する声明」を発表。「西沙・南沙諸島および東沙・中沙諸島はずっと中国の領土」であると主張。

1954年 インドシナ戦争が終結。ベトナムは南北二つの国家に事実上分裂。フランスはパラセル諸島を含むインドシナ地域から全面的に撤退。

1956年 当時の南ベトナム政府が南沙諸島の一つに上陸。フランスから支配を引き継ぐという名目で、自国の領有を示す石柱を建てる。台湾もスプラトリー諸島のうちの1つの島を確保。

1956年 当時の南ベトナム政府がパラセル諸島の西半分を占領。中国はパラセル諸島の東半分を占領する。以後、南ベトナムと中国は18年間にわたって対峙を続けた。

1958年 中国は「領海に関する声明」を発表。「東沙、中沙、西沙、南沙諸島にも領海規定が適用される」と宣言。しかし西沙諸島以外の島嶼への具体的な動きはなし。

 

1970年代

1970年 南ベトナムが南シナ海沖に油田を発見(バホー油田) その後70年代後半にかけて南沙諸島海域に海底油田(複数)の存在が確認される。

1973年9月 南ベトナム政府が南沙諸島のフォクトイ省への編入を宣言する。中国政府はこれに抗議。その後、領有権主張を本格化させる。

1974年1月 中国が西沙諸島の西半分に侵攻して南ベトナム軍を排除。西沙諸島全域が中国の実効支配の下に置かれる。主要島の永興島には滑走路や埠頭が建設され、南沙諸島進出の拠点となる。

1979年 中越戦争

1980年代

1982年 国連海洋法条約が制定される。沿岸国に大幅な海洋資源の権利が認められる。

1985年 中国中央軍事委員会、領土主権とともに海洋権益の擁護を軍の任務として採り上げる。この決議が、海軍を沿岸海軍から外洋海軍へと発展させる根拠になったという。

1987年10月 中国海軍が、西太平洋から南沙群島におよぶ広範囲な海域で軍事演習を実施。これにより中国海軍が沖合・遠洋での協同作戦能力を有していることが証明された。

1988年 赤瓜礁海戦

3月 南沙諸島における領有権をめぐり中国とベトナム海軍が衝突。赤瓜礁海戦と呼ばれる。中国は大規模な海軍力を派遣して南沙諸島の6ヵ所のサンゴ礁を占領。「中華人民共和国の領土」であることを示す領土標識を設置し部隊が駐屯する。この戦闘でベトナム軍の艦船3隻が被害を受け百人以上の死者・行方不明者が出たが、事件は水面下で処理される。

 

1990年代

1992年 南シナ海に関するASEAN宣言

2月 中国は「中華人民共和国領海法および接続水域法」を制定。南沙諸島海域を領海と宣言。外国艦船が同海域を通過するさいに中国の許可を必要とすると発表。軍に「領海侵犯者を実力で退去させる権限」を与える。

5月 中国、南沙諸島南西の「ヴァンガード堆」における石油探査権をアメリカのクレストン・エナジー社に認可する。ベトナムも「万安灘」に石油鉱区を設け、米国の石油企業に探査・試掘の認可を与える。

7.23 ASEAN外相会議、「南シナ海に関するASEAN宣言」を採択。中国は直接的利害を持つ重要関係国として認められる。

11月 全ての米軍がフィリピンから撤退。アメリカはフィリピンやベトナムに軍事支援を申し出る。

 

1995年

2月 中国軍艦艇、フィリピンが領有を主張するミスチーフ礁などを占領。プレハブ施設を構築する。フィリピン政府の抗議に対し「漁民の避難施設である」と説明。その後、対空砲や対艦砲、ヘリポートが設置され、大型艦船停泊が可能な突堤も建設された。

5月1日 『解放軍報』、高速ミサイル艇が編隊訓練を実施して南シナ海の石油開発を防衛していると写真入りで報道。周辺諸国に中国の軍事的膨張に対する警戒心がたかまる。

1995年末 フィリピンと中国が共同声明。「行動基準の原則」をうちだす。「地域行動基準」のさきがけとなる。

1998年11月17日 中国とフィリピンの外相会議。フィリピン外相は、「中国が建設中の施設は巨大であり、今後の推移を見守る必要がある」と指摘。唐外相は「施設はあくまで漁業目的であり、いずれ各国の漁民にも開放する」と説明、軍事目的ではないことを強調した。

 

1999年 「地域行動基準」の提示

6月 マレーシアが南沙諸島の岩礁に建造物を構築。

7.19 フィリピンの軍艦が南シナ海で操業中の中国漁船2隻を発砲しながら追跡、1隻を衝突、沈没させ、1隻を連行する。

7.20 フィリピンとベトナムがASEAN外相会議に「地域行動基準」案を提示。当事国・地域が共同で海洋資源の調査や軍事協力、海賊取り締まりなどに取り組むことを規定。「新たな構造物の構築活動は、2国以上の共同なものとする」とし、新たな建造物の構築を事実上不可能にしている。また「関係国の船舶は、他の関係国民がいる設備の500メートル以内に近づかないよう奨励する」とし、船舶同士の過度な接近も防ぐ内容。

10.28 南沙諸島上空で、比空軍機がマレーシア空軍機に数分間追跡される。また南沙諸島上空を飛行中の比空軍偵察機にベトナム軍が発砲する。
(いずれもフィリピン側の発表によるものだが、中国の南沙諸島進出をきっかけにマレーシアも利権争いに加わり、南沙諸島周辺がきな臭くなったことが読み取れる)

 

2000年 南シナ海行動宣言

1.08 国務省のロス次官補(東アジア太平洋担当)、南沙諸島で昨年「4つの国が軍事的な施設を建設、拡充した」と指摘。「紛争解決のため効果のある外交的道筋がない」と憂慮を示した。

5.28 中国とASEAN、南シナ海の紛争防止策について実務協議。「地域行動基準」の共同草案で合意する。軍人を含む対話の促進、漁船などへの威嚇行為の禁止などが盛り込まれる。ASEANが強く求める「これ以上の(岩礁などの)占拠の禁止」については、中国側は「表現が適切でない」と拒否。

12月 中国とベトナムが海上境界を確定する協定に調印。中間線を基本とする。批准は04年6月。
これは国際法的には大事な協定で、大陸棚を主張していたベトナム側を、中国が「中間線」論で押し切った形で妥協している。

2001年02月14日 中国外交部スポークスマン、「南沙諸島の主権が中国にあるのは疑いようのない事実だ。南沙諸島でのいかなる活動も、中国領土への侵犯行為であり違法である」と語る。

2002年 東南アジア諸国連合(ASEAN)と中国、問題を複雑化させる行動の自制を確認する「南シナ海行動宣言」に調印。