2010-06-01 13:25:57
牧田吉明が死亡しました。
これをご覧になったお知り合いの方、牧田と縁のあった方にお知らせします。
もう1年以上もたつんだ。岐阜に居たんだね。最後は生活保護を受けて、心筋梗塞になって入院して、入院先から脱走して家に帰って、死んでいるところを発見されたらしい。

ブログ改題 チャタレー夫人の居ない庭番というブログを開設していて、そこに経過が詳しい。

わたしは、小樽診療所の所長時代に、飲み屋で2,3回席を並べただけである。その店は花園通りのだらだら坂を半分ほど登って、ふいと右に曲がった、嵐山通りの奥の、居酒屋なのになぜかチーズパイにはまった亭主の店だった。9時半を過ぎると、居酒屋の客は大抵いなくなる。そこでセザリア・エボラを聞きながらグレンヴィルのロックで一杯やるというのが日課だった。そこに時たま彼もいた。塩谷の山の中で鶏を飼っていると聞いた。
おそらく彼は極度の躁病で、しかも年齢とともに重症化して行ったのではないか。ただ欝というほどではないにしても多少落ち着いていた時期はあったと思う。小樽期の後半がそうだったのかもしれない。
とにかく私のようなごりごりの日共・民青ともまともに話が通じた。私のほうが半年ほど上だが、同じ学年。同じ静岡の生まれだったから、おのずから話は無難にそういう話で始まった。
行動半径はかなり重なっていた。昭和町のちょっと入ったところに浮月という料亭があって、ここは隠居した徳川慶喜が暮らしたところだが、そこの息子と彼はつるんでいたらしい。そこへ行くと私は貧民だから、浮月といえばセミ取りで忍び込んで追い出された記憶しかない。
しかし酔いが回ればそれで終わるはずもなく、爆弾の話から、立命館での“単身殴りこみ”の武勇伝と一通りは聞かされる羽目になった。
実は立命館の攻防戦については民青の側の当事者からも聞いていたので、「飛んで火に入る夏の虫」の弁は面白かった。
彼の記憶力には舌を巻いたが、しかしそれが何になるという冷めた感情も捨て切れなかった。「俺は今でもがんばっているぞ」という自負が素直にさせなかったのかもしれない。
三回目には、養鶏場がうまく行っていないと愚痴もこぼした。そして本をくれた。「わが闘争・スニーカーミドルの爆裂弾」という勇ましい題名の本である。
それ以来音沙汰はなくなった。飲み屋の亭主も最近は顔を見せていないという。1996年の初春、未だ残雪うず高きころの思い出だ。