生きているということは、すべてが“過程”のうちにあるということだ。それが止まる瞬間がある。
それはストロボを炊いた写真のようだ。後になって突然震度5強の地震のよう襲ってくる。
写真と違うのは、そのときのアドレナリン分泌を伴って海馬溝の底から噴出してくることだ。いち早く気づいて口を押さえないと叫んでしまう情動を伴っていることだ。
言葉にすると嘘になってしまう。前後関係で説明しようとするからだ、それで合理化しようとするからかもしれない、それを自分は見破っている。だから恥ずかしさが余韻となって残る。
もっと言えばいたたまれないほどの恥の気分が襲ってくる。これはアドレナリン分泌に付随して起こるセロトニン分泌のためだろう。

永六輔は「幼なじみの思い出は、青いレモンの味がする」とさらりと書いた。これはこれで良い。さだまさしは、相方の気持ちに仮託することで逃げを作りながら、その一瞬を鏡に描いた。いずれもテクニックである。さもないとドロドロになるか硬直してしまうか、どちらにしても逃げ道がなくなってしまうからである。

しかし本当の業は、流れの中の一瞬をふたたび流れのなかに解き放つことであろう。その流れはバーチュアルな流れであり、ありていに言えばフィクションである。