財界は国際競争力を錦の御旗に、国民からの税収奪を強化し、労働者の収入を減らし、端的に言えば国民生活を破壊してまで、利益の確保に躍起となっている。
しかしそうやって積み立てたお金はそのまま使われずに、内部留保として空しく積み上がっていく。
途中の理屈を全部飛ばすと、日本経済は大企業の内部留保を増やすために機能していることになる。それはまったくの一方通行であり、稼げば稼ぐほど国民はますます貧しくなることになる。

企業は国際化の中にあって、厳しい試練に晒されている。為替も原油も穀物もきわめて不安定で、先の見えない時代になった。国際的な投機資本の手にかかればライオンに襲われたガゼルのごとく、一発アウトである。だから内部留保をこれまで以上に積み上げて、体力の強化を図るのは当然のことである。

個別企業にとってはその額に制限などない。多ければ多いほど良いのである。しかし一国の経済全体を考えれば、その額はおのずから決まってくる。景気を失速させないようなレベル、経済を貧血状態に陥らせないようなレベルが相対的に決まってくる。

内部留保に向かう水道の蛇口を閉めたり緩めたりするのは、政治の役割である。具体的には徴税制度のありかたである。これは左翼の考えではない。日銀の総裁も、最近では連銀のバーナンキも「政治の役割だ」と口をそろえている。


国際競争力とて、これだけがんばってこれだけ競争力が上がれば、国民生活が良くなるという話ではない。ただひたすら「負けたら生活がもっとひどくなるからがんばれ」というだけだ。
「がんばったのに良くならないではないか」とか「これだけ国民の所得が減ったのに競争力が回復しないのはどうしてだ」とねじ込めば、「これだけがんばったから、この程度の生活悪化で済んだのだ」と反論するだろう。

つまり「あぁいえばこういう」の世界で、このままでは二つの事態が永遠に続くことになる。内部留保の蓄積と、国民の「貧困の蓄積」である。「それでその先はどうなるのだ」ということに対する答えはない。

経団連や政府のさまざまな発言をどう見ても、出口に対する答えはない。これでは国民は何時まで、何を目指してがんばれば良いのかという目標を持つことはできない。戦争のときは「ほしがりません、勝つまでは」といって、ウソでもよいが一つのゴールがあった。いまの国際競争力論には、それすらない。

だが、実は短期にはゴールはあるのである。それが円高だ。国民生活の困窮はデフレをもたらし円の価値の相対的上昇をもたらす。これが構造的円高だ。もうひとつ内部留保という資産の積み上げは国際投機資金の流入をもたらし、円を押し上げる。

政府は円高だからデフレだといって介入するが、原因と結果が逆だ。いまは確かにアメリカとヨーロッパの景気動向が外圧となって円高を規定しているが、本質的には積み上げた内部留保と相対的低賃金が円高要因を形成している。

円高が何をもたらすかは省略するが、ようするに国民収奪強化が円高を生み、それから逃れるためにさらに国民収奪が強化されるという悪循環が形成されていることになる。これからの脱却が必要だ。