たとえばどこかの窓口で本人確認をもとめられたりする。
ID番号でたとえば「S16.12.08さんですね」と問われたら、「はい、そうです」と応える。しかし心の中では「俺はそんなものじゃない。俺は俺だ!」とつぶやくだろう。
少なくとも動いていて、生きていて、心を持っている。
囚人番号をつけられた受刑者がよくこんな感情を抱くと聞いたことがある。フランクルの「夜と霧」にもこんなことが書いてあった気がする。
それでは「私」の定義の中に“行動”を取り入れたらどうなるだろう。そこには無数の連立方程式が並ぶことになるだろう。それを一本の式に統一しようとすると、確率論になってしまう。そこには無数の“動き”だけがあって、「私」という直感的実在が消え去ってしまう。
今度は、「よせよ、俺はここにちゃんといるんだぜ!」
少なくとも、条件や環境に規定されて動いているだけではなく、自分の頭で考え、行動し、その限りでは周囲を変えられる力を持っている。たんなる迷路に入れられたオペラントねずみではない。

この「私」という直感的実在を、哲学的には「自我」という。
デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」といったのに対し、パスカルは「人間は考える葦である」と批判した。この批判には二つの意味があると思う。
ひとつは人間は神と同一の存在ではなく、神の一部でもなく、葦のひと草でしかない。そもそも神により葦として「規定された存在」でしかないということである。運が良ければ「葦 S16.12.08」というIDタグがつくかもしれない。
したがって“思う”とか“考える”とかいうことは、リンゴの実を食べるアダムの行為なのであり、それ自体が「被規定性の打破」である。神という言葉は「共同体の意思」と考えても良い。
もうひとつは葦という存在が本質的に集合的存在であるということである。一面の葦原の中で、ともに光を浴び、風にそよぎ、伸び、そして老いて枯れてゆく存在である。その中の一本の葦の考えは根源的に共同性を帯びているということである。(これらの思想はすでにヒルデガルト・フォン・ビンゲンのなかに示唆されている)
一見したところパスカルのほうがゆたかで弁証法的である。しかしデカルトの宣言なしにパスカルの批判が存在し得なかったことも間違いない。だからデカルトは近代哲学の嚆矢となりえたし、パスカルの理論は保守派の「引かれ者の小唄」に終わった。
「俺は俺だ!」という中世キリスト教世界への挑戦状が、そもそも議論の出発点であることを肝に銘じなければならない。

ソニーの首切りに対して臨時社員が立ち上がった。一本の葦に過ぎない臨時社員は考え始めた。会社という共同体の意思はやめることをもとめている。しかし「その意思は変だぞ」と考え始めた臨時社員は、そう考えている自分、昨日までの自分とは違う自分を発見する。
「われ思う。ゆえに(そう思っている)我あり」ということである。「昨日までの自分は何も考えていなかった、会社の意思が自分の意思だった。ということは存在しないも同然だった」という反省と、それは結びついている。
そうなれば1本のか細い葦であっても、「考える葦」集団の一員として、意地を示さなければならない、と考えが発展して行くのである。

(デカルトとパスカルは勝手読みです。専門家的評価はご勘弁を)