新自由主義者が、結局はジャングルの掟の信奉者・唱導者に過ぎないことは良く知られている。
彼らはある意味で自然主義者であり、自然のおきてに従うことを「科学的」で「客観的」であり、したがって「合理的」な態度と信じている。その限りではナチの生物学・優生学主義と似ていないでもない。

ソニー多賀城の首切りに反対する2チャンの掲示板を見つけた。そこには、おそらくソニーの正社員の手になるであろう反論が寄せられている。その匿名性は九電社員の場合と似ているが、その冷酷さははるかに勝っている。

①会社が不景気だから社員を首切るのは当然でしょう。
②契約社員はそういう契約なんだから首切られて当然でしょう
この発想からは、当然次のような思想が生まれる。
③戦争なんだから人が死ぬのは当然でしょう
④武器は効率良い殺人のためにあるのだから、核兵器は当然でしょう

①から④まである意味すべて正論です。ジャングルのおきてに従えば、それらはすべて正しいのです。しかし人間がなぜジャングルのおきてにしたがなければならないのでしょうか。

種としてのヒトはジャングルの中で決して強い生き物ではありません。ジャングルの掟に唯々諾々と従っていれば、絶滅するほかありません。ヒトは集団を作ってその力で弱肉強食のジャングルの世界に耐え、種としての生存を図ってきました。
人間は社会的動物であるとよく言われますが、人間というのは群れを成していて、群れの一員であることにより生存を保障されてます。
つまり集団の力で自然の掟に逆らって、自然の掟を拒否することによって人間の社会は成立しているわけです。逆らい、拒否するということは自然の掟を否定することとは違います。むしろそれを承認し受け入れた上で、それを克服しようとするのです。
このような集団には、当然のことながら集団としての掟が発生します。その掟の第一は助け合いです。第二は協働です。そして第三が団結(見方を変えれば自己犠牲)です。この団結というのがなかなか曲者で、家族愛・隣人愛として昇華されることもあれば、コザノストラの血の掟のような排他的。攻撃的な性格を帯びることもあります。
もちろん原始共同体以来の共同体の掟には、封建的で個性を抑圧する性格もたぶんにあります。
それに対抗する近代的な個人の個性の開花、自主・自由の尊重は、集団の掟のさらなる発展段階として議論すべきものであります。しかしそれは人間社会が打ち立てた社会共同体の上に開花しているものであり、弱肉強食の世界の復活ではありません。

被災地の労働者が首になるのはジャングルの掟では当然ですが、人間社会の掟ではあってはならないことなのです。人間社会の掟においては、彼らは救われなければならないし、日本国民同士として受け入れられるべきだし、復興を目指してともに働くべきです。