シャキーラがアントニオ ・デ・ラ・ルアと離婚した、とのニュースが流れた。ルアはデ・ラ・ルア元大統領の長男で、弁護士としてもマドンナやU2などの契約を仕切る大物。昨年8月には既に別れていたという。

そんなことはどうでもよいが、興味を引いたのは彼らが11年も付き合っていたということ。11年前、デラルアはまだ大統領だった。2001年の末、クリスマスを控えた12月20日ブエノス市内は騒乱状態となり、デラルアは刀折れ矢尽き、午後7時半、群衆に取り囲まれた大統領官邸からヘリコプターで脱出した.そして夜の9時、上院議長に辞表を提出したあと国外に飛び立った。

群衆は「みんな出て行け、一人も残るな!」(Que se vayan todos、Que no se quede ni uno )とのシュプレヒコールを繰り返した。

それは、ネオリベラリズムがアルゼンチンのような“大国”をさえ食いつぶす力を持つ怪物へと成長したことを示す、象徴的な出来事だった。アルゼンチンは破産し、立ち直るすべを失った。

しかし翌年5月に大統領となったキルチネルの下で、アルゼンチンはIMFに頼らずに国家を再建する道を選び、それに成功した。したがって2001年はラテンアメリカがアメリカとIMFの支配を拒否し、自力復興の方向に歩み始める上での画期的な年ともなった。

あまり日本では知られていないが、ラテンアメリカは98年と02年の二回アメリカ・IMFの必殺パンチを受けている。98年のパンチはテキーラ・ショックと呼ばれている。これの原因は二つある。ひとつはNAFTA後に国内経済が壊滅し経済危機に陥ったメキシコを震源として、パニックがラテンアメリカ全体に波及したことである。

この第一波の津波は各国とも辛うじて切り抜けた。その後この津波は東南アジアを襲い、中国や日本までも含めて深刻な経済危機をもたらした。その後津波はロシアを襲った。ここでパニックは攻守ところを変えた。東南アジア金融危機においてはヘッジファンドが仕掛け人だった。ところがルーブル危機の場合は欧米資本がかなりの資金を投資していたため、自らの放った火の粉が自らに降りかかってくる結果となった。

資金繰りに窮したヘッジ・ファンドや米証券会社は対ラテンアメリカ債権を現金化することで資金を充当しようとした。そもそも米政府の財務・商務トップは証券会社トップの横すべりである。米財務省はこれを支援するためにIMFの機能を最大限活用しようと図った。

これが地球を一周して戻ってきたテキーラ・ショックの第二波である。とりわけ攻撃が集中したのがブラジルだった。当時ようやく軍事政権時代の経済的混乱を正常化し、回復に向かおうとしていたブラジル経済は、債務の厳しい取り立てを受け、木の葉のように翻弄された。しかしほとんど破産しかかったブラジルは、最後に「潰すには大きすぎる」との米政府の判断で救済された。ヘッジファンドの送り込んだスタッフがブラジル政府の主要財政ポストを握るという条件付だった。

しかし同じように取立てを受けたアルゼンチンは、「どうでもよい国」との扱いを受け、それが最終的破綻へと後押ししたのである。

その象徴的な出来事が10月に起きている。アルゼンチンのカバージョ経済相が、金策のためニューヨークを訪問した.しかしIMFも米財務省も、面会予定がないという理由で会談を拒否した。ていの良い門前払いである.
カバージョといえばかつてドル化政策を導入し、アメリカから救国の英雄とたたえられた人物である。私はこれを「カノッサの屈辱」にたとえたい。