安全のコストについての文章が舌足らずになっています。さらに書き込むのも面倒なので、09年11月に書いた更進記録を転載します。

  健康という言葉はきわめて多義的でそのとき、その人の思いによってニュアンスが随分変わって来ます。最大公約数で言えば、健康とは「不健康」でないという意味の形容詞です.「正常」とか「健常」と読み変えることも出来ます。
  「健康診断書」を書くときにいつも困るのですが、一通りの問診や診察、若干の検査結果を見て、「健康である」と診断するのは躊躇します。診断書では「健康 である」とはせず、「異常を認めない」と記載することが多いのですが、世間では「それを健康である」と書いてほしいといってくるのです。「それで良いじゃ ん」ということです。「無病息災」ということですね。
 これが健康に対する日本人の通念ですが、英語のヘルスというのはかなりニュアンスが違って いて、ヘルスというのはかなり意識的に作り出すものという感覚があります。風土の違いがあるのでしょうか、人間というのは放っとけば不健康になってしまう ので、絶えず健康でいられるように努力しなければならないという考えがあるようです。
 戦後教育の一環として「保健・体育」という教科がアメリカ から持ち込まれました。体育の先生といえば暴力団風の感じのいかついおっさんで、それが週1回、ジャージー姿で教室にやってきて、いかにも窮屈そうに「か らだの仕組み」とかの授業をやるのですが、まじめに聞いている生徒などあまりいませんでした。でも高校入試のときは受験科目の一つなので、それなりに参考 書に赤線を引いた記憶があります。昨今はどうなっているのでしょうか?
 余談はさておき、アメリカ人の心の中では、保健という活動と、体育という活動は一本線で結ばれているのです。体を育てる活動と同様に、健康も育てるものであって、たんに守るべきものではありません。健康という状況は自らが主体的に作り上げるべきものととらえられているのです。
  これに対し、日本では健康は一つの生得的な所与と考えられています。人間は放っとけば健康なのであって、それを不健康な生活をして壊してしまうから不健康 になってしまうという風に考えます。これは水に対する考えと似ていて、日本では「水は天からもらい水」なのに、他の多くの国では「水は苦労の末に獲得すべ き貴重な社会的資源」なのです。
 もっと話を膨らませると、結局健康に対する考え方は水に対する考え方によって規定されているのかもしれません。 人間の体の90%は水からできているわけですから、その水をどこからどのように獲得して来るかというのは、人間が自己を物理的に維持する上で決定的な条件 となります。水を獲得するのが困難なほどそれは社会組織の発達を促します。したがってその延長上にある健康・保健のとらえ方も社会的ニュアンスを帯びてき ます。

ということで書いていますが、この健康というところを安全という言葉に置き換えればそのまま通用するでしょう。安全は守るべきものではなく、社会の力で作り出していくべきもの、育てていくべきものなのです。したがってそれにはかなりのコストが必要なのです。それを電力料金の値上げという形でまかなうか、節電という努力でまかなうかということになります。
ただ、今の日本では、それだけではすみそうにありません。米倉会長や葛西会長をはじめとする「安全ぼけ」で「欲ぼけ」の財界と闘うというコストがそれに上乗せされるでしょう。