*経済学における「ロビンソン・クルーソー物語」の批判
人間はアリストテレスがいう通り「ポリス的動物」である。たんに社会的な動物であるだけではない。それは社会の中でだけ自己を個別化することのできる動物である。
大昔ほど個人は大きな全体に属するものであった。初めは家族の中に、のちには種族にまで拡大した家族の中に、そして諸種族の対立から生まれたさまざまな形態の共同体に属する。
「市民社会」において初めて、さまざまな社会的関連は個々人の私的目的のためのたんなる手段とみなされるようになった。それは同時に外的必然性として個々人に対立するようになる。
(これを分かりやすくいうと、近代社会になってはじめて「わたし対社会」という関係が成立するようになった。私にとって社会は利用すべきものとなったが、同時に私にのしかかってくる「よそよそしい」あるいは「まがまがしい」存在となった、ということになる)

*生産、分配、交換、消費は外面的には円環をなしている。生産は一般性、分配と交換は特殊性、消費は個別性を表現する。しかし共同体社会の本質は生産と分配である。交換は偶発的なものであり、消費は本来は経済学の外にあるものだ。
*生産は一般的な自然法則に規定されるが、分配は社会的な偶然により規定されており、両者の関係は矛盾をはらんでいる。ところが経済学者の中には分配にも自然的法則があるとして、生産と同列視しようとする見解がある。
*生産と消費の直接的同一性について この論理は資本論第一部の商品の分析にそのまま用いられている。今回は割愛。なお生産を出発点として位置づけるのはリカードゥの視点。
*現代社会では直接的な分配は、少なくとも主流ではない。自給自足経済では分配のあとの再分配として位置づけられた交換が、市場経済の下では圧倒的な比重を占めている。かつての分配は政府による租税徴収というかたちで、残されているに過ぎない。それにもかかわらず、マルクスは生産すなわち消費という大枠、そして生産と消費が分配に基づいて結合する社会を経済のプロトタイプとして押し出す。そしてその上で、交換がどういう位置づけになるのかを定めようとする。その際、ヘーゲルの「論理学」(本質論)を意識的に適用している(したがって非常に抹香臭い)。

分配と同様、交換も、明らかに生産のうちに契機として含まれている。第一に分業(生産の社会的あり方)がなければ交換もない。第二に私的交換は私的生産(私的可処分性)が前提条件となる。第三に交換の規模や形態(物物交換から貨幣経済まで)は生産の発展段階(可処分物資の余剰量)によって規定される。