ちょっとしつこいようだが、葛西中電会長の論説をもう少し考えたい。
結局葛西氏の原発維持論の根拠は電力供給の不安定化と、電力料金の高騰ということになる。つまりはコスト問題に収斂される。

原発事故の被害はコストとして算定することができない

まず基本的立場での相違をはっきりさせておきたいが、原発問題はコスト問題ではない。
それは途方もない地球的災害なのである。しかも事故はまだ進行中なのである。
その放射能の99%はまだ原子炉の地下に潜んでいる。そして巨大な異形を現しつつある。これが地表に出れば、現代科学のすべてを以てしても対抗できない可能性すらある。

JRにたとえるなら、乗客を乗せた新幹線が時速300キロで暴走中なのだ。止める術はもはやない。とりあえず乗客には死んでもらうしかない。しかしそのあとに別の列車が走っている。こちらは止めなければならない。少なくとも安全が確認されるまでは絶対止めるべきだ。
なぜか? 経済より人の安全のほうが大事だからだ。ここが分からないと、JR西日本の山崎社長の二の舞だ。信楽・宝塚の悲劇が再現されることになる。
 
これまで起きてしまった具体的被害もコストとして算定できるものではない。今回の事故で失われたものは10万人規模の人々の生活であり、そこに何世代にもわたって積み重ねられてきた地域の伝統・文化であり、半径30キロの国土の半永久的喪失である。他にももろもろあるが、この三つはもはや取り返しがつかない。

それらをすべて受忍・受容したとして、「せめてゼロからの出発」のために10兆円強の金が必要なのである。

原発コストには三つの構成部分がある

そのうえで、コスト問題に取り掛からなければならないが、葛西会長はコストの三つの構成部分のうちひとつしか語っていない。つまりこれまでのように、何の事故もなしに通常運転を継続している場合のコストのみである。

しかしこれからは、最低でももうひとつのコストを計上しなくてはならない。すなわち10兆円の賠償金を支払っても会社が経営を継続できるだけの保険コストである。
JR東海も過酷事故が起きた場合の保険をかけているだろうし、当然運賃に上乗せしているはずである。しかし東電はしていなかった。
それがどのくらいの規模になるのかは知らないが、これを電力料金に上乗せすれば、コスト論はそれだけでも吹っ飛ぶだろう。

三つ目はこれまでツケ回しにしてきた廃棄物処理コスト、老朽化原子炉の廃炉コストである。
もうすでにそれは目前に迫られている。福島第一原発を廃炉にするためのコストである。浜岡原発もどうせ老朽化はしてきており、いずれは迫られた問題だった。

原発国策論はコスト論の放棄だ

こうやっていろいろ詰めていくと、原発論者は必ず、「原発は国策だった。民間に押し付けられただけ」と開き直るが、それは結局、低コスト論の破綻の自己告白としかならない。
原発擁護論者は、つまるところその理由が低コストだからなのか、安全なのだからか、クリーンだからなのか、それとも原子力推進が国策だったからなのか、そこの立場を明らかにしてから議論を展開すべきだろう。
せめてJRは人命の安全を経営の最高理念として堅持してもらいたい。列車の運行確保はその後の話である。それが分からない人に会長を務めてもらいたくはない。

運転再開には二つの条件が必要だ

ただ、私としては当面の原発運転再開に絶対反対しているわけではない。点検中の原発の再開を認めなければ、それは事実上「すべての原発の即時・無条件・全面廃止」ということになる。
神戸でも、そして今回の救援・復旧活動でも確認されたように、電気はさまざまなインフラのなかでも水・食料に次いで重要な資源である。少なくとも日本においては、電気がなければ人間的生活を送ることはできない。
一定の激変緩和措置が必要という現場の声があれば、耳を傾ける必要があるだろう。

その際には、ひとつは今回の地震と津波の教訓を踏まえた客観的で合理性のある再開基準を提示して、それをクリアできれば再開してもかまわないと思う。
もうひとつは、運転再開がなし崩し的に未来永劫の原発継続にならないという保証が必要だろう。ここを明らかにしない再開論は不誠実であり、脅迫でしかない。
再開論者といえども、国民的合意を目指すのなら、できるだけ速やかに原発の縮小廃止と代替エネルギーへの転換を行う姿勢を明らかにし、誠実に将来エネルギーを探求することで合意を求める姿勢が必要だろうと思う。

あと1年ですべての原発が止まり、深刻な電力危機がやってくるかもしれない、という葛西市の危機感は分からないでもない。しかし、再開した後、人の命と安全性をどうするのかは語られない。そこには葛西氏はまったく危機感を感じていないように見える。葛西氏の論説は、そこの点でどうしても容認できないのである。