GDPは日本の経済・社会のパフォーマンスを示すのに有効な指標ではなくなってきている。むしろそれは国民収奪の指標となっている。このことは以前のブログでも書いた。

とくに小泉改革の後はそれが顕著に現れている。20年前と現在を比べて経済がよくなっていると実感する人は誰もいないはずだ。もちろん大量消費のバブル景気がすばらしかったというわけではないし持続可能であったとも思われない。

賃金は横ばいないし微減、非正規労働の急増、社会保障水準の絶え間ない低下、膨大な財政赤字、人口高齢化…。間違いなく日本経済は疲弊しつつある。その疲弊を後押ししたのが小泉改革だが、不思議なことにその間GDPは一貫して増加を続けた。

ここから分かることは、国民の富の総体というものがあって、それは年間総生産の中から蓄積され生産のためのリソース(資源)となっているということ、そしてその総体の増減を表す指標はまだ作られていないこと、しかしそれは間違いなく減少しているということ、すなわち日本がタコ足生活に入っているということ、などである。食う足がなくなった瞬間、日本のGDPが劇的な減少を遂げることは容易に予測できる。

そしていまやGDPではなく国民の生産リソースの総体を増加させるべく、経済・社会政策を転換する必要があるということである。目に見える経済活動ばかりではなく、生産のためのリソースを増勢に転化する必要がある。短期的には「庶民の懐をあたたませる」政策であり、中長期には雇用の安定、収入の安定、老後の安定、教育・育児環境の充実などであろう。

高度経済成長を続けている間は、GDPで経済活動のあらましは判断できるが、生産活動の統計に表れにくい「生産活動」は経済の成熟とともにその比重を増してくる。何をしているのか分からないような商売が増えてくる。

経済学者のなかには、環境=自然資源とGDPとのトレードオフが最大の課題とする意見もあるが、価値が人間の労働によって生まれる限りにおいては、人的ソース (human resources) の量的・質的拡大こそが最大の資源開発と、私には思える。無尽蔵の自然資源が地下に眠っていながら経済発展が大きく立ち遅れた国などいくらでもある。

ともあれ、GDPを経済・社会開発の最高の指標とする時代は終わり、少なくともそれと並んで国民の富の総体の変化を示す指標をさまざまに試みていくことが必要になっている。

http://www.foreignaffairsj.co.jp/essay/201011/Wolverson.htm

GDPの考え方は、上記の論文「GDPは万能ではない。だが、代替経済指標はあるのか?」(フォーリン・アフェアーズ リポート2010年10月号)が簡潔にして要を得ている。

GDPでは、経済活動が環境の持続可能 性に与える影響などの長期的要因は考慮されないし、所得格差もカウントされない。したがって、GDP成長ばかりを追い求めれば、環境悪化、所得格差の問題 が深刻化する可能性がある。GDPは万能ではない。だがGDP をいかに改善すべきか、あるいは、他のアプローチに置き換えるかについて、エコノミストの間にコンセンサスはない。

大きくいって二つの考えがある。

ひとつは「政治家と有権者が、GDPは社会的充足度を計るための指標と間違って信じ込んでいる以上、たんにGDPをいじる程度では問題の解決にな らない」とするラジカルな考えである。

もうひとつは、たとえばスティグリッツは、「経済政策決定がもっぱらGDPだけを基準に下されるのを避けるために、追加的な指標をGDPに 加える必要がある」と主張し、これにより政策決定者に経済決定のインパクトの全体像を理解させることができると考える。

私の感想だが、それらの意見には、生産活動を根本的に規定するものは総体としての「人間の労働」だ、という観点がない。さらに、人間の豊かな欲望の創出こそが生産活動の推進力だ、という発想がない。