魯迅のせりふ「打落水狗」(水に落ちた犬は叩け)の訳だそうです。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1313698513

私は毛沢東の言葉だとばかり思っていましたが、毛沢東が魯迅の言葉を引用したのでしょうね。

最初に聞いたときには「正しいかも知れないが、飲み込みにくい言葉」だと思いました。そのあと、文化大革命が始まって、ますますその感は強まりました。

ふと最近思い出して、思わず膝を叩きました。犬というのは愛玩犬としての犬ではなく「権力の走狗」のことだということです。すなわち東京電力です。

彼らは世渡り上手ですからめったなことでは水に落ちません。落ちたとしても、しおらしくしているのはほんの一時です。そのままにしておけばやがて水から上がってまた悪さを始めるに違いありません。時間の勝負なのです。

 第二次世界大戦はファシズムに対する民主主義の戦いであり、平和と民主主義を奉じる世界の人民が勝利を収めました。
ところが日本には民主主義をになうべき人民は存在しませんでした。天皇制ファシズム国家の敗北を我が敗北として受け止めるほかなかったのです。一億総懺悔です。

言ってみれば溺れる犬を叩くべき民衆が一緒になって溺れていたのですから、数百万国民を死に追いやった戦犯への追及は行われないままに終わり、東京裁判という「外圧」として受け止めるほかありませんでした。

肝腎なことは、日本人民はいまだに戦争責任を主体的には追及していないということです。

東電という国策会社、国家に匹敵するスーパーパワーを相手に面と向かって断罪するのは、日本国民にとって初めての経験です。
それはある意味で、あいまいなままにしてきた第二次大戦、あるいは国家というもののありように対する国民的総決算です。

「七人の侍」で馬に乗った野盗を泥沼に追い落とし、やっつける場面がありました。溺れかけた東電に止めをさすこのチャンスを逃してはいけないでしょう。
その野党が家に帰れば良き夫であったり、パパであったりする情景を想像する必要はとりあえずありません。