さらにもうひとつ転載 2011.4.25 「想定外」という言葉への検討が行われている。何の想定だったのか、それは「安全性」のラインだ。原発というものは原理的にはきわめて単純な構造で、したがって極めて安上がりな設備である。 原発の建設に関して技術というものがあるとすれば、それはほとんどが安全性に関する技術となる。安全性のラインはいかようにでも引ける。これを厳密に引けばコストは上昇する。最低ラインにすれ ばほとんどただに近いものになる。だからどのようにでも値段は決められるものなのだ。 もしも原発賛成論に立ったとして、それではいくらのコストを甘受するか、ここで立ち場の違いを超えた人間性が問われてくる。なぜならそこにはスリーマイルやチェルノブイリの(そしてこれからは福島 原発の)先例があるからだ。つまり事故の起きた際の破壊的影響を鑑みて、原発の安全性に関する技術はいまだ完成していないという認識の共有がある。 したがって一般的コスト論(安ければ安いほど良い)のではなく、一種の"必要悪"として、代替エネルギー源として、たとえば火発並みの、あるいは水力発電並みのコストを想定して、それを「安全性」の ラインの最低線とする。それで安全性が担保できなければ断念する、という「逆立ちした」発想も必要になるだろう。これはあくまで原発賛成論に立ったうえでの議論であるが。 安全性の議論というのはフェイル・セーフ装置の構造化である。今回の事故はそもそもフェイル・セーフ論が存在していなかったことを明らかにしている。地震が来ても安全、津波が来ても安全、停電に なっても安全ということではない(実際にはそれすらも守れなかったのであるが)。炉心溶解があったらこうする、水素爆発があったらこうする、放射性物質の漏洩があったらこうするという論理的バリア が存在して、初めて安全性が議論できるのである。 きわめて単純なことだが、今回のような大規模な地震と津波は想定外だったかもしれない。しかしスリーマイルやチェルノブイリは想定できないはずはなかったのである。