とは言いつつも、大井さんの文章をそのまま読み飛ばすのは惜しい。

いくつか拾っておく。

まず大井さんは、認知症の機転の基本として、記憶障害を取り出す。これにより社会との疎通が失われ、その代償機転としてヴァーチュアルな世界が形成される。

この「擬似世界」は虚構であるためにさ、まざまな不都合をきたす。これが認知症だ、ということになる。

しかしこれだけでは何も言っていないに等しい。①記憶障害、②交流障害、③仮想世界の形成のいづれが本質なのかが語られていないからである。

つぎに他者から見た認知症について、3つの特徴を上げる。これは尊厳死協会のアンケートによるものだ。

①惨めな状態、②認知症は病気である、③認知症は恐怖である。

まあアンケートだから適当なものだ。

認知症は病気なのか?

ただ気になるのが「認知症は病気である」という項目。これは大井さんが必ずしもそう思っていないから、わざわざ取り上げたのだろう。

おそらく大井さんは、アミロイド沈着というアルツハイマーの本態はさておいて、症候論もふくめての「痴呆症候群」として捉えるべきだとの思いがあるのだろう。

「痴呆症」は病気なのか?

誰がつけたかしらないが、「認知症」というのはあいまいで不正確な名称だ。要するに「痴呆症」が差別だから言い換えたに過ぎない。盲目者が視力障害者になり、ろうあ者が聴力障害者になるのと同じで、言葉の言い換えが範疇の曖昧化に繋がる。

あえて「老年痴呆」と言葉を戻して、議論してみよう。これは高齢化に伴い知力の高度の衰えがもたらされた状態だ。明らかに病的状態(病気と言ってもいい)ではあるが、これは「症候群」であって、疾患(単一の病理変化にもとづく病気)ではない。

正常の人でも加齢により知力は衰えるのだから、要は程度問題である。周辺症状により対人関係に支障をきたすこともあるが、これも程度問題である。しかもこちらの方はある程度薬物によるコントロールが可能である。

現に私が見ている痴呆老人の多くは穏やかで、介護者との接触も保たれている。徘徊は好奇心のなせる業のごとく見える。

もちろん進行すれば周囲との接触は徐々に失われ、沈思黙考あるいは独語の世界に入る。しかしその時も強い呼びかけには普通に応える。あえて言えば、「人とともに生きる」のがだんだん面倒くさくなってきたのである。

別に惨めでも、恐怖でもない。人に突然襲いかかって苦痛と不安と恐怖をもたらすものが「病気」だとすれば、「病気」のうちにふくめて良いのかさえ考えてしまう状態だ。

アルツハイマー病は間違いなく病気だが

最初にも述べた通り、間違いなくアルツハイマーは病気(アミロイド蓄積症)だ。原因から病態生理までふくめてかなり明らかになっている。

これが世間にも理解されるようになってきたことはご同慶の至りだ。ただしあまりにも広義に捉えられすぎている。

痴呆症のすべてがアルツハイマーではない。まして老人につきもののさまざまな生活障害(極端な場合は寝たきり、垂れ流し)までもがアルツハイマーのせいにされては、アルツハイマーが可哀想だ。

アルツハイマー病を哲学的に考察する必要はない

多くのアルツハイマー型認知症を見ての感想だが、この病気やこの病気の罹患者を哲学的に解釈する必要はないと思う。

この病気は社会学的サイドから膨らませられすぎている。治療法こそ未確立だが、福祉的な対応は十分に可能であり、むしろ患者の生活を「悲惨」なものに貶めている社会政策的な対応の不備が主要な問題だと思う。

その意味では、痴呆症に限定せず、老人の抱えるさまざまな肉体的・精神的ハンディキャップをどう救い上げていくか、もっと広い視点からの対応が必要だ。

哲学的にあつかうなら、老いをどう見つめていくかが問われることになろう。その中で、もっと各論を旺盛に展開しながら、精神機能(大脳)、神経機能(脳幹)、神経内分泌機能(間脳)を総合的にすくい取る分野が展開されていくことになるのではないか。