内務省の歴史

1873年(明治6年) 

5月 岩倉使節団が帰朝。副使、大久保利通はプロイセン王国の帝国宰相府をモデルに、強い行政権限を持つ官僚機構の創設を目指す。

11月 明治6年政変により大久保が政府の実権を握る。内務省が設置され、初代の内務卿に大久保が就任。地方行政と治安維持を主務とする。

実体としては大久保によるクーデターに等しいものである。大久保の独裁のための政府内政府であり、軍隊を除く政府機能のほぼすべてがふくまれる。

当初は上局(後の総務局)の下に大蔵省の勧業寮、戸籍寮、駅逓寮、土木寮、地理寮が移管された。また司法省からは警保寮、工部省から測量司が移管された。
76年に庶務局(後の県治局)、衛生局が新設、77年に社寺局が移管される。

1875年 讒謗律を制定、新聞紙条例を制定、さらに出版条例を改正するなど自由民権運動への弾圧が強化される。

1876年(明治9年)

警保寮を廃止し警保局を設置。

1877年 西南戦争が勃発。戦争終結直後に大久保が暗殺される。軍幹部の山縣有朋が内務省に就任し軍政一体路線を強化。

1880年  国会開設運動を期にふたたび自由民権運動が盛り上がる。内務省は集会条例を制定、さらに新聞紙条例を制定するなど弾圧を強化。

1885年(明治18年)

内閣制が実施され、内務省も内閣に属することとなる。山縣有朋が初代大臣となる。

内務省処務条例が施行される。官房、総務局、県治局、警保局、土木局、衛生局、地理局、戸籍局、社寺局、会計局の局制が実施される。
その後はほぼこの体制(県治局、警保局、土木局、衛生局の四本柱)が維持される。

1887年 保安条例が制定される。尾崎行雄、星亨、片岡健吉、中江兆民ら451人を皇居外3里より外へ追放。建白運動への弾圧を強める。

1890年(明治23年)

集会条例をさらに包括的にした「集会及政社法」が制定される。自由民権運動は息の根を絶たれる。

鉄道庁が内務省の外局として分離。後に逓信省に移管。

1891年(明治24年) 日清戦争が始まる。内村鑑三の不敬事件、久米邦武の筆禍事件が相次いで発生。

1892年 第2回衆議院議員総選挙。内務大臣品川弥二郎は予戒令を発し、激しい選挙干渉をおこなう。

1900年(明治33年)

治安警察法が公布。自由民権運動などの政治活動の規制を主目的とする「集会及政社法」に、労働運動の規制を付加したもの。内務省の主要な弾圧対象が左翼にシフト。

1.政治結社・集会の届け出。集会における言論の制限と臨監。
2.街頭デモの禁止。
3.ストライキの禁止(労働条件・報酬に関し協同行動すること、“団結”に加入させること。同盟罷業において労務者を停廃させること)
4.軍人・警官、神職・僧侶、教員、女性の政治活動禁止。

神社局(元社寺局)が設立され、国家神道政策を司る。

1904年 日露戦争。

1910年 韓国併合。内務省が植民地行政を担当。

1910年 総理大臣に直隷する拓殖局が設置され、植民地行政は内務省管轄を外れる。

1911年

大逆事件が発生(前年)。危険思想取締りのため、枢要地に特に専任警部を配置する。これを受け、警視庁に特別高等科(特高)が置かれる。

1917年(大正6年) ロシア革命が勃発。

1918年(大正7年) 米騒動が発生。

1920年 社会局が外局として設置される。労働行政を司る。警視庁特別高等課に労働係が新設される。

1921年 第一次大本事件。出口王仁三郎らが不敬罪・新聞紙法違反で起訴される。

1922年

日本共産党が創設される。この後社会運動の発展に伴い、北海道・神奈川・愛知・京都・大阪・兵庫・山口・福岡・長崎・長野などに特別高等科が設けられる。

1923年(大正12年)

6月 第一次共産党検挙事件。警視庁官房主事だった正力松太郎の独走と言われる。

9月 関東大震災が発生。都下に戒厳令が施行される。朝鮮人集団虐殺のほか、共産党活動家、無政府主義者が軍の手により殺害される。

1925年(大正14年)

5月 治安維持法が制定される。内務省は特別高等警察の元締として、思想犯や政治犯の取り締まりを監督。

1926年(大正15年―昭和1年) 京都学連事件、水平社事件が相次ぐ。京都学連事件は最初の治維法適用例、後者は爆弾テロのでっち上げ。

1928年(昭和3年)

3.15事件。1道3府27県で、共産党活動家1568名の一斉摘発。労働農民党・日本労働組合評議会・全日本無産青年同盟に解散命令。河上肇、大森義太郎、向坂逸郎が大学教授を追放される。緊急勅令で治維法が改正され、最高刑を死刑とする。

7月 全府県に特別高等課が設けられ、主要な警察署には「特別高等係」が配置される。 警保局図書課の予算が倍増され、言論弾圧を拡大。

警保局(とくに保安課)が拡充強化され、思想警察を全国的に統轄することとなった。
府県の特高課長は直接に中央の保安課長と結びつき、その任免は保安課長に一任された。内務省の機密費も保安課長から直接に特高課長に送られていた。

1929年

4.16事件。約700人が検挙される。弾圧に反対する山本宣治代議士が刺殺される。

1930年

共産党シンパ事件がおこる。中野重治、三木清らが検挙される。

1931年

満州事変が勃発。

警察精神作興運動。「陛下の警察官」の意識が強調される。

1932年 

共産党幹部の岩田義道が逮捕・虐殺される。スパイの暗躍により極左方針が横行。「熱海事件」で残された共産党活動家が一網打尽となる。プロレタリア文化団体への弾圧が始まり、蔵原惟人、宮本百合子らが検挙される。

6月 警視庁特高課が特別高等部に昇格し権限を強化。思想弾圧は野放し状態となる。

10月 司法官赤化事件。東京地裁所属の尾崎陞判事らが共産党シンパとして検挙される。

1933年(昭和8年)

長野で二・四事件(教員赤化事件)。共産党シンパとされた教員138人の一斉検挙。信濃毎日新聞に「関東防空大演習を嗤う」を書いた桐生悠々が強制辞職。

小林多喜二の虐殺。最後の幹部であった宮本顕治、野呂栄太郎が逮捕され、共産党は壊滅。獄中の共産党幹部が転向表明。

1936年 

コム・アカデミー事件。山田盛太郎・平野義太郎・小林良正ら講座派研究者および左翼文化団体関係者の一斉検挙。

ひとのみち教団(PL教団)幹部の検挙、新興仏教青年同盟の妹尾義郎らが検挙。

1937年

『世界文化』同人の一斉検挙。中井正一・新村猛らが拘束される。東京帝大経済学部の矢内原忠雄教授が辞職に追い込まれる。

第1次人民戦線事件。山川均・猪俣津南雄らの労農派活動家、加藤勘十・鈴木茂三郎らの左派社会民主主義者417名がいっせい検挙される。翌年の第2次人民戦線事件では、大内兵衛・美濃部亮吉ら労農派教授が検挙される。

1938年

1月 衛生・社会両局が厚生省として分離される。人事は内務省と一体のものとして運用される。

2月 「国家総動員」が叫ばれるようになる。防共護国団員が国家総動員法に慎重姿勢を示す政友党、民政党本部を占拠。石川達三の「生きてゐる兵隊」が発禁となる。

3月 社会大衆党の西尾末広が政府を激励する演説をおこなう。 「ヒトラーの如くスターリンの如く」との発言が問題となり議員除名となる。

7月 内政会議(首相・蔵相・内相・文相で構成)が発足。内務省が主導して「国民精神総動員運動」の企画と指導を管轄する。

道府県庁内に総動員課・総動員事務局・事変課・時局課などを新設し、町村分会が隣保組織(部落会、隣保会)を組織した。

7月 産業報国連盟が発足。警察組織を中核として企業単位産報を組織につなぐ。

10月 反共の闘士、河合栄治郎東大教授の主著が、リベラルな傾向を非難され発禁となる。河合はその後辞職を迫られる。

11月 唯物論研究会事件。岡邦雄・戸坂潤・永田広志・新島繁ら幹部35名が検挙される。戸坂は終戦を目前に獄死。

1940年 

大政翼賛会が発足。知事が翼賛会の地方支部長を兼ね、内務省による政治支配が完成。

反軍演説を行った斎藤隆夫代議士が議員除名処分を受ける。

生活綴方運動への弾圧開始。村山俊太郎ら教員約300名が検挙される。「新興俳句弾圧事件」でも俳人多数が検挙される。

プロテスタント(メソジスト)系キリスト教会・救世軍への弾圧。日本人伝道者がスパイ容疑で憲兵に逮捕される。

1941年

1月 企画院事件。左翼前歴者の多い企画院内若手判任官の研究会を摘発、岡倉古志郎・玉城肇ら逮捕。その後和田博雄・勝間田清一・和田耕作ら中堅も検挙される。

3月 治安維持法全面改正。予防拘禁制が実施される。 396名を検挙・検束・仮収容。

防空局が新設される。

4月 「国防保安法」が制定される。国防上、外国にたいして秘匿を要する重要な機密を保護することを目的とする。刑法以外に特別に重い刑罰が課される。政治的・思想的弾圧の手段として利用された。

10月 ゾルゲ事件が発覚。

12月 「言論出版集会結社等臨時取締法」が公布される。時局に関する「造言飛語」「人心惑乱」行為を処罰するもの。その内容がたとえ事実で、確実な根拠にもとづくものであっても処罰される。

1942年

2月 「戦時刑事特別法」が公布される。刑事手続について特別の取扱いを定める。「宣伝」行為処罰の規定では、「戦時に際し安寧秩序をびん乱する宣伝したる者」を実刑に処する。

6月 中西功ら上海反戦グループが検挙される。

9月 横浜事件が発生。中央公論社・改造社社員の会合を共産党再建会議と見なし検挙。ほか日本評論社・岩波書店・朝日新聞社の編集者など49名を検挙。

9月 満鉄調査部事件。調査部の具島兼三郎、伊藤武雄、石堂清倫ら検挙。

1942年

拓務省が廃止され、植民地行政も内務省に一元化される。

1943年

創価教育学会の牧口常三郎・戸田城聖らが検挙される。

1944年

毎日新聞「竹槍では間に合わぬ」の記事で差し押さえ。

1945年

戦争敗北の流言が広まり東京で1月以来40余件が送検。

1947年

5月 日本国憲法が制定。都道府県知事を公選制とするなど地方行政の転換がなされる。

12月31日 内務省、GHQの指令により廃止・解体される。