以前の赤旗で、上海や南京の慰安所が取り上げられたが、今回は武漢の慰安所が記事になっている。


武漢というのは長江を南京からさらに遡ったところで、もともと違う3つの街が合わさって武漢を形成している。その中で漢口の街の中心部に陸軍の慰安所があった。

1937年(昭和12年)の7月に柳条湖事件をきっかけとして日中戦争が開始されたが、それが本格化したのは8月の上海事変からで、ここから日本軍は内陸部に向かい進軍。その年の12月には南京を占領した。有名な南京大虐殺が起きたのはその時のことである。

蒋介石の国民政府は、その後も武漢に拠点を構え抵抗を続けた。日本軍はそれに引き込まれるようにズルズルと進軍を繰り返し、翌38年の10月に武漢を占領した。

本音はこの辺で一度休戦に持ち込みたかったのだが、蒋介石はさらに重慶にこもり抵抗を続けた。この頃からとくに米英両国の蒋介石政府への支援が活発となり、日本は完全に泥沼にはまりこんだのである。

というのは歴史の話。

さて、武漢に侵入した日本軍がまずやったのは慰安所づくりである。そして漢口地区目抜き通りの中山大道にあった資産家の建物を接収し、慰安所に改造した。その名を「漢口特殊慰安所」という。

その規模がすごい。慰安所と言っても一軒ではない。

漢口
内地でも見かけないほどの一大遊郭である。

ここには日本人や朝鮮人が運営する20あまりの施設がありました。…日本の敗戦までの7年間にわたり使用され、常に300人の慰安婦がいました。うち日本人と朝鮮人が半々だったといいます。

慰安婦だけで300人いれば、少なくともその数倍の雇い人がいただろう。これはもう一つの街だ。

しかも武漢の慰安所はここだけではない。全部で60ヶ所あったとされている。これだけの規模で運営されている施設が慰安婦の確保、食料その他の調達などで軍の関与なしに存在しうるわけはない。


ところで

慰安婦問題についてイロイロ難癖をつける人々は、彼女たちが性奴隷(籠の鳥)であり、性労働を強制され、それ以外の労働を許されない存在だったことを見ようとしない。

イロイロな理由があれば性奴隷制度が許されるのだとすれば、児童労働も黒人労働も同じ論理で許容されてしまうのである。

しかも、それを国家機構の柱である軍隊が(しかも栄えある皇軍が)やってしまったのである。客観的に見れば、国家による強制以外の何物でもない。

これが中核的事実であり、国家犯罪なのである。