広井良典さんの「定常型社会」(岩波新書)という本ほど、何回も挫折する本も珍しい。

パラパラと読む分にはなかなか面白いのだが、身を入れて読もうとするとたちまち字面が負えなくなる。

なにか話が変な方向に行ってしまうのである。「おいおい、ちょっと待てよ。そこから先は道が違うんじゃないの」ということだ。

そして彼が何かしらの定式めいたものを打ち出す頃にはすっかり白けてしまうのだ。

結局彼の言う定常社会というのは停滞社会のことだ。「停滞しても安定した社会」というのが彼の理想社会、というと言いすぎかもしれないが、少なくとも「モデル社会」だ。

私は以前「平和な中規模国家」というイメージを提起したことがるが、それとは似て非なるものがあるようだ。

私はいまだにマルクスの言うように「現代社会は真の人間史が始まるトバ口の社会だ」と信じているから、とにかく宗派が違うのである。

広井さんの言葉をつなげていくと、昔の「主婦と生活」の特集にあった「やりくり上手で幸せな家庭を」という記事を思い出してしまう。

「資源は有限だ」という前提で「欲望も無限ではない」とか「高望みしなければ人間幸せ気分になれる」というお説教がつい思い出されてしまうのである。

この手の話は必ず天井論を前提にしている。

1.資源には天井がある。

2.環境には天井がある。

3.人間の欲望には天井がある。

これらのうちのどれか、あるいはそれらの組み合わせで議論を立ててくる。

古くはローマクラブの提言、最近では温暖化、国内限定バージョンでは飽食社会論などがそれである。

それらは大抵が善意の提言であり、儲け主義への警告であるから、積極的な意義を持っている。ただ、それを絶対化されたり生活信条化されると、ついていけなくなる。相容れないものを感じてしまうのである。

世界史的、あるはもっと振りかぶって人類史的には、人間は資源に天井がないこと、欲望にも天井がないことを証明してきたではないか。

と言っても、人類の歴史はたかだか数万年に過ぎず、その中でもしばしば絶滅の危機を乗り越えてきたので、これから先も絶滅の危機はやってくると考えておいたほうが良いのだが。

とにかく「天井論者」に言っておきたいのは、簡単に世の中を数値化して論じないで欲しいということだ。

世の中常に反省と積み上げで出来ている。環境が悪化すれば改善するし、エネルギーが不足すれば省エネ技術が発展する。技術が飽和すればそこに革命的が技術が登場する。

問題なのは社会の無政府性が社会進歩を妨げ、場合によっては社会を破壊してしまうことだ。そのことも世界史的に見れば極めて明瞭な事実だ。ローマ帝国が崩壊したように、大英帝国が没落したように、アメリカの世紀もいずれ終わりを遂げるかもしれない。しかしそれは人類の叡智が終わりを告げたわけではない。むしろ発展していったからこそ、古い入れ物が間尺に合わなくなっていったのである。