許すな! 憲法改悪・市民連絡会のホームページから

ノーマ・フィールドさんのお話 (2003年11月)

法律を慈しむとは

憲法の抽象性と具体化への努力

日本国憲法についての集まりをもてる日本の人々をうらやましく思います。第二次世界大戦という大変な代償を払ってこういう集会が開かれるのではないかと思 います。

その意味で日本の人びとが日本国憲法を自らのものにした戦後の歴史の重さをあらためて感じています。

9条に反対する人たちは、日本人が平和ぼけをしてしまったというけれども、私はこのぼけは、平和の大切さに対するぼけではないかと思います。

平和というものは、私たちの生活全てにとけ込んでいる根拠であるからこそ、見えにくくなっている。

もう一度、何に対して平和ぼけしているのかというと、それは紛争を暴力で解決する手段、その危険に対するぼけではないでしょうか。

きょうのタイトルの法律を慈しむの「慈しむ」ですが、私にとっては法律というものの抜きがたい抽象性をどうやって身近なものにするのかということです。抽象性を具体性に戻していく営みが必要である。

ひとつは私たちが知っていることに還元させていくこと。もうひとつ逆に想像力を発揮して、私たちの知らない事件に身を置いてみる。そういう二つの行為が必要ではないかと思います。

先ほど申したように平和なしでは何一つ始まらない。その意味で法律に対する私たちの感性を、9条に対する私たちの感性を、どうやって育てていくかというのが大きな問題ではないでしょうか。

「9条=非現実」を考える

久しぶりに日本国憲法を読み返してみて、現実性をいうならそれこそ日本国憲法は非現実的な理念ばかりではないかと思います。

たとえば第3章は、国民の権利及び義務などについて非常に理想的な理念を掲げているすばらしい章です。読んでいて非常に感動し、涙が出てくるような第3章だと思います。

国の責務が 第3章に明記されています。(しかし理想的ではあるが現実感はない) これは現実感(の希薄さ)において9条とどれほど違うでしょうか。

では非現実的である法律、条項をどのように考えたらいいのでしょうか。宣言・理念というものを法律の威厳を持たせて提示しなければ、政府のやっていることの違法性、嘘の度合いを測る手段がないわけです。

たとえばブッシュが今の戦争を平和と民主主義のためだといったときに、嘘の度合いを測ることがなかなかできません。9.11以後、アメリカは愛国者法が定められ、人権がどんどんむしばまれています。貧富の差もますます拡大し、アメリカの社会は生きにくくなっています。

改憲論をめぐって思うこと

55年体制以降の政権は、なぜこれほど夢中になって「憲法改正」に熱を上げてきたのでしょうか。本当に無効な9条だったらわざわざ改憲する必要がないのではないでしょうか。

そこで逆に私たちは憲法9条が果たしてきた役割を測れるのではないでしょうか。つまり9条を破棄して、もっと現状に即した法律を作るというのは本当に危険なことだと思います。

一国平和主義ではしょうがないともいわれます。でも、ここまでアメリカと密着してきた日本が、それでも(辛くも)憲法に平和主義をかかげてきた、それは世界の人びとに力になりうると思います。

(これは多忙な方のための抄録です。ぜひ原文をご参照ください)


本日2時からノーマ・フィールドさんの講演があるので、急いで事前学習です。

憲法の第3章をこの憲法の精華としてとらえる姿勢は共感できます。第3章の精神を土台に9条を読み込む視点が強調されているのだろうと思います。